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2007年12月24日 (月)

障害受容(4)

障害受容(3)に、フー様よりコメントをいただきました。ありがとうございます。
それで、過去記事やいただいたコメントを読み返しました。

2006年11月 2日(木) 障害受容
2006年11月 5日(日) 障害受容(2)
2006年11月 6日(月) 障害受容(3)

およそ1年前の記事です。そこにはこの『障害受容』について、「自分の気持ちを一度整理しておきたかった。将来、この記事を読み返してどう思うか、変わっているのか、いないのか…」。とあります。

読み返してみて、その答えは、「変わっていない」、この時の気持ちのままですね。

TO君に障害があることを認め、だからと言って悲観するだけではなく前向きに、親としてできる限りのサポートを行っていく(TO君の気持ちを理解すること、療育、適正な支援、支援体制を拡げることなど)…、それを『障害受容』というのなら、私達夫婦は『障害受容』できているのかもしれません。

でも、その『受容』する気持ちが毎日の生活の中で、揺らがないわけではありません。
最近、幼稚園にも慣れ、安定してきたTO君はあまりパニックや問題行動を起こすことなく落ち着いていますが、それでも時折、不安や感覚過敏、こだわり、対人関係の不成立などからパニックを起こした姿を目の当たりにすると、やはり親としてはショックを受け落ち込みます(私は仕事に行っていますから頻度は少ないですが、妻の方がよくこういう状態に立ち会います)。
こんな時は、「何故、TO君に障害があるのだろう」、「この障害がなければ…」、「障害が憎い」と思いたくなるのは当然ではないでしょうか。
また、これからの就学や進学、就労への不安、私達親無き後のこと…、それだけではない、健常者なら当たり前のように、そして親がそれほど心配するでもなく(心配のしようもない)する恋愛、そして結婚、自分の子ども…、それがTO君に叶うことだろうか(難しいか…)、と考えるととても辛く、悲しくなってしまいます。
更に、いけないことだとは思いつつ、「こんなTO君には将来がないと、一緒に命を落とそうか…」と考えてしまうことだってあるのです(これはTO君の人権を侵すことになりますから、してはいけない、考えてはいけないこと…と頭ではわかってはいるのです)。

こんな気持ちを持つことさえ否定される(=『障害受容』できていないとされる)のであれば、やはりそれは、私は『障害受容』できていないのだと思います。

『障害受容』について、少しだけネットで検索してみました。
その中に、『段階説(Dratar, et al. (1975))』というのがありました。
先天性奇形を持つ子供の誕生に対してその親の反応を、1)ショック→2)否認→3)悲しみと怒り→4)適応→5)再起の5段階に分類してあるようです。この各段階を一つずつ経験、乗り越えていき、『障害受容』していくというものなのでしょうか…。わからない気もしないではないですが、5段階目でハイ終わりって簡単なものではないような気がします。
もう一つ、『慢性的悲哀(Olshansky (1962))』というのもありました。
これは、精神遅滞の子どもの親の慢性的悲哀 chronic sorrow について、『絶えざる悲しみ(Olshansky 松本訳 1968)』あるいは『慢性的悲嘆(渡辺 1982)』と訳されていて、障害児の親が子どもの障害を知った後に絶え間なく悲しみ続けている状態。この状態は正常な状態ではなく、<親がさまざまな防衛機制を働かせる状態(渡辺 1982)>、あるいは<「真の」受容に達していない状態(要田 1989)>など、否定的に受け止められる傾向がある。しかし、Olshansky の発表の主旨は慢性的悲哀を正常な反応と認めることにあった。
…とありました。
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/ld/z12020/z1202001.htm
(勝手にリンクしていいのかな?)

いろいろと難しいことが書いてあって、まだ自分なりに理解もしていませんが、この2つの説で言うと、障害がわかって、そのことにある程度適応し、前向きに考え始めた第一段階としては、前述の『段階説』は当てはまる気はします。しかし、その後は、またその『段階説』の各段階を繰り返すか、もしくは、次の『慢性的悲哀』状態でいるような気がします。

もう既に、ここに、障害を持つ我が子がいます。毎日毎日少しずつではありますが成長し続けています。
「障害がなければ…」と思う反面、その子は既に「障害を持っている」という『個性』をも持っている。「障害さえなければ…」と思いたいけれど、もうこの子の個性、存在自体は、「障害ヌキ」では説明できない、考えられないのも事実。その個性を愛おしく思えることもあれば、これは障害からくるものだと思うが故に、「あぁ、どうして、障害があるのだろう」と思う。

障害を持つ親は、そんなジレンマと日々繰り返し戦い続けているのではないでしょうか。

フー様の問いかけにどれだけ答えられたかはわかりません。
「あの親は障害受容できていないから…」という医者について…、
障害があることが明かであるのに、「これはこの子の個性です」と、適切な療育や支援を怠っている親がいるとすれば、それは『障害受容』できていないと非難されるのかもしれません。
でも、ある程度障害があることを認め、混沌とした状態から必死にもがいている親を相手に言われているのであれば、それはひどい言葉だと思います。
幸い、私達夫婦がお世話になっている専門家の方々からはひどいことを言われたことはありませんが、ただ一つ、前記事(障害受容(3))にあったことくらいです。

しかし、やはり専門家の方から、親に対して障害受容を促すようなことは言って欲しくないと思っています。
親は、その子に障害があると肯定する?(認める?)気持ちと、否定する(障害がないとするのではなく、障害を否定したい、憎みたいとする)気持ちを持ち合わせ、その気持ちが行ったり来たりしながら、それでも前向きに考えよう、一歩でも前に進もうと自らを奮い立たせているのです。

例え、「この子の個性です」と障害を認めない親であっても、その親に対し、「障害と認めなくてもいい、その子の個性だという理解でもいいから、その子に合った、必要な支援」を根気強く薦めるような、そんな専門家が多く存在して欲しいものだと思います。
もちろん、ある程度障害受容できている親に対しても、それぞれの気持ちに寄り添い、共に子どもの成長を支援していただけるとうれしいです。

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