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2011年7月30日 (土)

GUNDAM pomera

「祖母の死」に関する三部作…「トイレの神様」「直葬」「変わり者 vs.非常識者」、このダークな内容の記事で、また、この blog がしばらく放置状態になるのは忍びないので、毒気のない、どうでもいい記事を書いて休止しておきたい。

以前、GUNDAM pomera が KING JIM というメーカーから発売されたことは書いた(KING JIMというメーカー、他の商品も欲しいものがある。アイデア商品がいっぱいある)。その時は、既に初代機を持っているから諦めるしかない…と思っていた。

…が、ネット会員になっている某サイトで特価価格で購入できることになってしまった。いや~悩んだ。
「買うかどうかを?」
…じゃなくて、「3つのモデルのうちどれにするかを…」だ(この値段なら買うのは当然!)。

(詳しくは、KING JIM のHPをどうぞ)
ジオン軍のエースパイロットと言えば、「赤い彗星」の異名をもつシャア、そのシャアが搭乗したモビルスーツをモチーフにした赤を基調にしたモデル。

軍人として、男として、また、上官として部下に慕われるランバ・ラルとその愛機、グフ(ザクとは違うのだよ。ザクとは!)をモチーフにし青を基調にしたモデル。

どちらも捨て難い。しかし、難点があるとしたら、どちらも派手過ぎる。自宅や職場の研究室でこっそりと使うくらいなら問題ないが、出張先の空港ロビー、電車内で開くにはちと躊躇いがある。キーボードまで赤 or 青なのだ。

その点、ジオン軍の量産型モビルスーツであるザクⅡをモチーフにした、緑を基調にしたモデルは落ち着いていい。ちょっとおとなしい感じはするが、「ジオンと言えば、ザクでしょ!」…ということで、結局、これに決めた。ちょっと安全パイな感じなんだけど…。

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外箱…これだけでもかなりそそられる。

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天板…ジオンマークのデザインがカッチョいい。何気にモノアイも。しかもソフトケース付き。

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キーボード…「enter」キーにジオンのマークがナイス。

あと、どのモデルもだが、
起動時には、「機動戦士ガンダム」と「テレビタイトル」がランダムに出る。
終了時にも、「懐かしのシーン」と「モビルスーツ」等のスペックが表示される。
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ちょっと笑うのが、
ギレン・ザビの名台詞をパクった注意書き…
「あえて言おう! メモであると!」
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確かに、この pomera は、メモしかとれない単機能デジタルグッズである。それがいい人にはいいし、物足りない人には全く相手にされない商品になるのだろう。

初代機はどうしたか?
結局、妻に高価買い取りしてもらうことにした。
まだ、使い方を教えないといけないんだけど、使い方もなにも、電源入れたらメモしか入力できない単純機器。妻も blog の下書きをするにはちょうど良いと思う。

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2011年7月26日 (火)

変わり者 vs. 非常識者

祖母は生前、三男叔父のことを人に紹介する時いつも、「変わり者です。」と言っていたらしい。

確かに、私も、叔父の発言や行動、意見は、「変わってるなぁ」という印象を持ったことが幾度もある。

しかし、叔父のそれは、他の人と単に違った考え方や意見を持っているだけで、常識がないということではないのだ。

「常識とは何ぞや?」…という問いに、ちゃんと答えられるわけではないが、こういう人間の方が、「常識がない人間」ではないだろうか。

通夜?の日の夕刻…、
「ここ(葬祭場)にいたのか?」と、さも自分に連絡がなかったことを不満そうに、そして、更に、
「○○○(私の弟の名前)には、連絡したのか!」とこれまた責めるかのような言い方で叔父の前に現れたのは、私の母である(“母”とも書きたくないが、別の表現をするとややこしいので仕方がない)。これだけでも充分に常識がない。お悔やみの言葉を言うのが先だろう。

母はこれまで幾多も暴言を吐いている。
言い始めたらキリがないが、少々あげつらうと、

祖母が老人ホームに入ることが決まった時、その手配をしてくれたKI姉、KU姉に向かって、
「あんな老人ホームに入れて可哀想だ。私が引き取る。だけど、自分は旅行に行くことが多いから、その間はあなた達(KI姉、KU姉)が見なさい!」
そもそも、祖母が「自宅であったはずの家」から出て行かざるを得ない状況を作って、祖母を家から追い出したのは母である。何を今更必要以上に関わろうとするのか?
それとも、これまでの感謝と償いのために、いろいろと自分の人生が清算された今なら、祖母の最期を自分が完全に犠牲になって面倒みたい、看取りたいと言うのなら見上げた話ではあるが、“都合良く”看取ったという事実を作り、善人ぶりたいだけなのだ。

老人ホームの職員にもいろいろ注文をつけた。医療従事者だった経験を活かして(悪用して)、難癖をつけるのだ。祖母が望んだわけではない。祖母は我慢強い人で、人の迷惑になるのが一番嫌いな性格だった。私は人にはそれぞれの生き方や性分があると思っている。そして、実際にホームの職員にお世話になりながら生きているのは祖母なのだ。祖母が職員から嫌な扱いを受けないよう(そんな職員は誰もいないが…)、周囲の関係者は職員に気分よく祖母の世話をしてもらえるよう配慮すべきだと思っていた。もし不当な扱いを受けているとしたら別だが、ここのホームの職員はとてもよくやっていると思う。実際、祖母から職員への愚痴は一度も聞いたことがないし、祖母は「よくしてくれる。」としか言ったことはない。

確かに母は、このホームにいる祖母を何度か見舞っていた。そのたびに祖母は、「ありがたい、ありがたい。」と母に感謝の言葉を言ったらしいが、こんな(ホームの人には失礼な言い方だが)ホームで一人で暮らしているのである。誰が訪ねて来ても有り難く、うれしいはずである。
それを、この通夜?の晩、親戚一同の前で、さも自慢げに「祖母に感謝されていた」と話し始めたそうである。自分が追い出しておいて、よくそんなことが言えたものだ!

そして親戚に、叔父のことを、「私はこの人のペースに着いていけないんですよ。」…どういう意味???
叔父も面食らったらしいが、「誰も着いてきて欲しいとは言ってない。」と切り返した。そうしたら、「そうだけど…」と口ごもったそうだ。旦那でもない人に何を失礼なことを言っているのだろう。
後で叔父から話を聞いて、「私もあなたのペースに着いていけません。」と言ってやれば良かったですね。…と笑って話した。

ただ失礼な発言・行動はそれだけではなかった。あろうことか、喪主である叔父を差し置いて、さも自分が看取ったかのごとく、祖母の棺の側で親戚を案内し始めたそうなのだ。呆れて物が言えない。
更に何を言い出すかと思えば、祖母の実の息子である叔父に何の相談もなく、親戚達に「お骨は自分が預かる」と言うのだ。これには叔父もさぞ腹が立っただろう。

ただこれに騙される親戚もいるから手に負えない。×子さんは良い人だ。別れた亭主の母親の看病をした上に、看取ったのだと、お通夜?にまでこうして来てくれて…お骨まで預かってくれる。
叔父の言葉を借りれば、「ホラーの世界だ!」である。

冷静に考えたらおかしいだろう。常識ある親戚達は、「あの人は誰だ?」「何でいるんだ?」と、疑問を抱いたそうである。当たり前だ。

百歩譲って、別れた亭主の母親だけど、いろいろと恩義があったから、臨終に際して線香の一本でもあげさせてもらいたい…と言って、通夜?の席に来て、丁重に喪主や親戚の方々に挨拶をして失礼する…なら話はわかる。おそらく、これが「常識ある人間」のすることだと思う。
それを喪主を差し置いて、でかい面をして長々と通夜?の席に居座り、自分が主役のごとく、今ではただの赤の他人である元親戚達と話をしているのである。その姿が滑稽だと、なぜ気付かないのか?

私は、前記事にも書いたとおり、休憩のため一時帰宅していて難を逃れた。もし私がいたら追い出していただろう。叔父から電話があった時も、何度、直接ケータイで怒鳴ろうかと思ったが何とか踏みとどまった。「望まれない行動に対しては、“無視する”ことが基本」である。

翌日、叔父はもう来ないだろうと言っていたが、私はきっと来ると確信していた。案の定、神妙そうな顔をしてやってきた。それも親戚の一人を車に乗せ、自分も火葬場まで行く気満々なのである。
出棺するまでの間にも、大きな面をして元親戚と話し込む。私の話もしたらしく、「現在喧嘩中であること、更に自分はTO君のことを心配している。息子(私)は厳しいところがあるから、TO君をどのように教育しているのか心配なのだ。」と言い触らしていたそうなのだ。自分が理解がなかったことへの反省の弁はない(期待はしてないが)。絶句である。

私は無視を決め込んで葬祭場の外に出ていた。叔父は「最悪の展開だ!」と言っていたが、すぐに機転を利かせ、母が連れてきた親戚に、「最期の火葬場では、自分と孫(私のこと)の二人きりにさせてくれ!」と頼み込んで納得してもらった。

ようやく嵐が去り(台風という嵐はこの後だったが)、近親の者のみで無事火葬を済ませることができた。叔父が心安らかに自分の母親を葬送することができたと思いたい。

私の方は、これまでの母の幾多の悪行に加え、通夜?と火葬の日の言動・行動に腸が煮えくり返り、母の顔を見た途端、祖母が亡くなった悲しみよりも、母への憎悪の気持ちの方が上回り、祖母との最期を平穏な気持ちでいることができなかった。そのことがとても残念である。

これでまた、母を許すことができないことが一つ増えただけである。

こんな人間に比べれば、叔父はとても常識ある人間だと思う。通夜?の晩、母がいなくなるのを待っていたので遅くなったが、私は妻と子供達(祖母にとってはひ孫)を連れて最期の別れをさせた。その時、妻に叔父はこう言った。
「奥さん、ご免なさいね。旦那さんをずっと借りてて。子供達もたいへんなのに、申し訳ないねぇ。」
子供を持たぬ叔父がこんな優しいことを言う。母ならこんな言葉、一言も言わないだろう。「やって当然だ。」と思うくらいだ。

叔父の顔に泥を塗り、私の祖母との別れの時を台無しにした母を、私は絶対に許さない。
以前、母に言った、「あなたが死んでも泣くかどうかわからないけど、婆ちゃんが死んだら絶対に泣く。」は、こんな事態になることを暗示していたのかはわからないが、私が母の死に際し何かを執り行うことも、最期を迎えるその時もその場にいることは決してない。

叔父との濃密な1週間余りの日々で、以前は単に「変わり者の叔父さん」と思っていたが、自分とかなり意見が合うこともあることがわかった。
私も、「変わり者」と呼ばれようが構わない。
非常識者に何と言われようが、知ったことではないのだ。

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2011年7月24日 (日)

直葬

「直葬(ちょくそう)」とは、通夜や葬儀といった葬式を行わず、原則的に火葬のみで済ませる葬儀スタイルを言うそうである。以前から、身元不明者や生活困窮者のケースで火葬のみを行うことはあったが、近年、新しい葬送方法として認識されているようだ。

数年前から、三男叔父からは、「(祖母が)もしもの時、自分は遠方だから(妻の体調のこともあるし)間に合わないかもしれない。その時は焼くだけ焼いておいてくれ! その後、お別れの会でもすればいいから。」と、冗談まじり?、いや本気で言われていた。

今回、祖母が亡くなる数週間前に、老人ホームの責任者から連絡があり、ホームのかかりつけの病院の医師と今後の方針について確認をして欲しいということで、私と祖母の姪になる者数名で、その医師と会って話をした。その医師はとても優しい感じの方で、祖母本人の意思も充分に理解し、私たち身内・親類の気持ちも汲んでくれて、最期を看てくれることを約束してくれた。それはとてもありがたいことであった。前記事には書かなかったけれど、この医師は病院まで特急電車で1時間以上かかるところから通勤しているらしいが、祖母の臨終に際し、早朝5時5分頃のホームからの連絡にすぐに駆けつけてくれた。病院からホームまでおそらく車で20分以上はかかる。おそらく、前の晩は病院で待機してくれていたのだろう。ホームからの事前の説明では医師が来てくれるのに、もしかしたら1日くらい時間を要するかもしれないと言われていたので、すぐに来て頂いたことにとても感謝している。

話は逸れたが、医師との話し合いの後、ホームから亡くなった後のことも親類間で話合っていて欲しいと言われた。具体的には葬祭場をどこにするのか…と言ったこと。これについては姪の一人が「○○院はどうだろう。あそこは家族葬等をよくしてくれる。」という提案があったので、比較的簡単に葬祭場候補は決まった。
しかし、問題は葬儀のやり方である。私は既に叔父から頼まれていたので、冗談混じりにそのことを言ってみた。その場にいた皆が、「冗談でしょ!」みたいな感じであった(やっぱり…、普通そういう反応だよね)。

叔父にはその夜連絡し、皆、看取り方に文句はないが、葬儀についてはかなり抵抗があると思う…と伝えた。

7月に入るとすぐ、叔父は帰郷して、祖母のホームで寝泊まりすることになった。私も休日にホームに行って、叔父と今後について打ち合わせた。

叔父はとにかく、「坊主には一銭も払いたくない。坊主に金を出すくらいなら、来てくれた人にその分の金を配る!」という主張だった。

しかし、「直葬」で問題視化されている、故人を葬ることを軽んじているわけでもない、宗旨・宗派を知らないわけでもない(…というより、よく勉強されている)、無宗教論者というわけでもない、むしろ、いろいろ勉強して知っているからこそ、「葬式はいらない、戒名もいらない」と言っているのだと感じた。

数年前から、祖母が倒れたりすることで、よく帰郷することになったこの叔父と話をすることが多くなったのだが、それまでは子供の頃会ったきりであった。20年ほど前に祖母が最初に脳卒中で倒れた時に見舞った時があったが、久しぶりに会った叔父と顔を合わせた瞬間、「もう来なくていいから…君達には関係ないことだから…」だった。久しぶりに会った甥っ子に、それも祖母を見舞いに来たのに、いきなりそういう言葉か?と、その時はびっくりした。今考えると、祖母はもう亡くなるだろうから、叔父一人の責任で祖母を葬むろうと思って言った言葉だったのかもしれない。

話す機会が多くなってからも、よく叔父は、「自分は母の息子として扱われたことがない。母にとって息子は次男(私の一応父親)だけだった。自分が来ているのは、自分しか連絡がとれないから仕方なく来ているだけだ。」等と恨み言のように言っていた。

だから、「焼くだけ焼いておいて!」ということには、「死んだらそのままにしておくわけにはいかないから、とりあえず仕方ないから焼いておいて!」というように最初は聞こえていた。

でも、特に祖母が亡くなるまでの1週間ほど、私も毎日祖母のところに通い、祖母はもう話すこともできない状態で眠りについたりするので、2時間ほどの間、叔父といろいろなことについて語り合った。

それをここでどう表現していいかは難しいが、叔父は自分の母親のことを本当はとても大事に想っていて、口では義理でやっているようなことを言っているが、自分の手で最期をきちんと看取ってあげたい、葬ってあげたいと想っているのだということを感じることができた。
実際、私達兄弟が大学に進学し、私の母と祖母が上手く行かなくなった頃、祖母が息子(叔父)のところを訪ねた時に、「一緒に暮らさないか?」と祖母に勧めていたということだった。
前記事には書かなかったが、最期を看取った瞬間も、叔父は何も言わず、部屋を一人で出ていった。どうしていたかはわからない。でも、一人、母の死を悼んでいたのではないかと思っている。

本当に言葉どおり、「焼いておいて!」なら、奥さんの体調も芳しくないのに、遠方から早くに帰郷しては来ない。私に任せて、亡くなった後にやってくるだろう。

私は、この叔父の葬送方法に協力することに決めた。

「葬式無用、戒名不用」…白洲次郎の遺言なのだそうだ。私も白洲次郎の名前は聞いたことがあったが、叔父はその言葉をよく口に出して「いいねぇ、いいねぇ」と言っていた。それは単に「坊主に金を出したくない」と言った言葉どおりのものではなく、おそらく白洲次郎もそうであったのではないかと思うが、葬式に義理で知らない人が大勢集まるのではなく、本当に故人を偲ぶ人だけが集まってもらえればいい、費用のかかる見栄の儀式にとらわれず、また、死んでまで戒名というもので格付けされるのまっぴら御免(勉強不足で間違ってたらすみません)…ということに惹かれて言っていたのではないかと思う。
私自身も職場で訃報を聞くたびに、“違和感”を感じている。比較的似た感覚だなぁと感じた。

あるネットの情報を見ると、「正確な統計はないが、葬儀社からの印象をまとめると少なくとも10%ほど、関東など都会では30~40%の人が直葬を希望している」。
…とは言っても、ここは地方、更に祖母の田舎は治外法権がまだ通用するのではないかというくらいの閉鎖的ど田舎。叔父の進歩的?意見が通用するかどうか…。
「葬式もしない、坊主も呼ばない」に加えて、更に叔父は、香典も受け取らない、本人は喪服も持ってないからと、喪服も着るつもりもない。

「喪服も着ない」んですか? その辺は私も気にする。葬式はしなくても、通夜?の晩や翌日、火葬場に行く前に、葬祭場には親戚が最期の別れにやってくるだろう。それを平服で迎えるのは失礼では?
でも、喪主である叔父が平服なら、喪主に恥をかかせるわけにもいかない…。

それで私がした手段は、次のような文書を作って、祖母が亡くなった時に、親戚にこの内容で連絡してもらうことを提案した。これを読んだ叔父は、「完璧だよ。いいねぇ。直葬!」と満足げだった。
叔父の進歩的?で過激な?発言(意向)を、超保守的?な親戚にできるだけ柔らかく伝え、自分自身も自己防衛しようという意図有り有りである。

***** 文書の概要 *****
親戚・関係者各位

   喪主:叔父の氏名

 母・○○○子におきましては、7月△日・○時□分、終の棲家となった老人ホーム「□□□□」の自室で静かに息をひきとりました。
 つきましては、下記祭場にて、故人が生前お世話になりました方々と、最期のお別れをさせていただきたいと思います。
 なお、故人も華美なことは好まず、近親の者で静かに見送りたく、通夜・葬儀・告別式等の儀式は執り行いませんのでご了承下さい。

※ なお、お気持ちはありがたく感謝いたしますが、香典の受け取りはご遠慮申し上げます。また、儀式等は行いませんので、平服でお越し下さい。
*****************

果たして、その効果は…、

通夜?の日の午後3時すぎ頃、私は一端、叔父と二人の通夜?の夜明かしと、翌日の火葬の準備&休憩を兼ね帰宅した。

休憩していた私のケータイが鳴る。叔父からの電話だった。出ると「田舎から親戚一同、一個連隊が到着した。香典を受け取らないというのに、皆、そんなこと言ってたって、こうなるんだよ!」と言って、叔父は数の力に圧倒され断ることもできず、あっけなく撃沈したとのことだった。

それに数名で静かに送るはずだったのに、酒はないもののその場は宴会状態だと言う。KI姉とKU姉がつまみ等を買って持ってきて対応してくれた。

一個連隊が去った後、叔父と二人きりの通夜?が始まった。叔父は様々な分野の本をよく読み、短歌も嗜む。バイクが好きで山登りも好き、多趣味で話は飽きなかった。70歳を過ぎているのに、とてもそうは見えなかった。祖母も生前、「おまえ(三男叔父のこと)は歳をとらないねぇ。田舎の同年代の者は皆、爺さんになってるよ。」と言ったらしい。

翌日は、小雨まじりの天気だった。台風も近づいているという情報だった。あまり暑くなくて良かったかもしれない。

この日も叔父の思惑と反して、親戚一同がかけつけて来た。近親の者のみで送るということにはならなかったが、それはこれまで祖母が皆に愛されてきた証拠だったのだと思う。叔父の「来なくていいのに…」という文句の裏には、感謝の気持ちはあったと思っている。

儀式はなく、お坊さんもなく、最期に来てくれた人で棺に花を供えた。一人一人が祖母への想いを感じていただろう(招かれざる者が一人混ざっていたせいで、私の気持ちはそれどころではなくなっていたが…、そのことはまた記事にする)。

火葬場では、本当に近親の者のみで祖母を送った。お骨もその者のみで拾うことが出来た。
最期は、叔父の望みどおりの葬送が出来たと思う。

「直葬」というスタイルの葬送方法には賛否両論あるだろう。でも、儀式をしようがしまいが、当たり前のことだけれども、故人を心から送りたいという気持ちが大切なのだと私は思う。
私自身もこの方法で葬られてもいいと思うが、もう一つ、「死に行くものは文句は言うまい」というのも言える。どうせ私が先に逝くのだから(ただの希望)、妻には葬送の方法まで注文をつけるのは止めておこうと思う。

そして本日、叔父から電話があった。もらった香典を叔父の地元の特産品と一緒に「御車代」として送り返したと言う連絡だった。火葬の日の朝から、そんなことを言っていたのは聞いてはいたが、本当に返したようだ。叔父は「初志貫徹だ!」と満足げに電話の向こうで笑っていた。受け取った者はさぞ驚くことだろう。出した香典のお金がそのまま送り返されてくるのだ。仰天するに違いない。

祖母はあの世でどう思っていることだろうか。
(息子のことを)「変わり者です。」と笑って許してくれてる…と思いたい。

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2011年7月20日 (水)

トイレの神様

「トイレの神様」…この記事名を付けながら、祖母が死を迎える“時”が来るのを待っている。
もちろん、「早く死んで欲しい」等と、“待ち望んでいる”気持ちなど微塵もない。祖母に関係する身内、親戚のほとんどが同じ気持ちを抱いているに違いない。

祖母は既に96歳、もちろん、「この年齢だから死んで良い」というわけでもない。しかし、訳あって老人ホームという施設で一人生きている。このホームに入る前も20年ほどの間、市営住宅で一人で生きてきた。

今のところ、意識もある。ほとんどと言っていいほど、ボケていないから、誰が会いに来たのかもはっきりわかっている様子だ。知っている人が来たら、何か話したいのだろう、一生懸命言葉を発しようとするが、もう言葉にならず、うめき声になるばかりだ。

しかし、本人の希望もあって、呼吸器も付けず、点滴もせず、医療的処置は何も行われていない。この数週間、口からの飲食をほとんど受け付けず、自ら“死”を迎え入れようとするかのように、ベッドに横たわっている。

「見殺しにしているのか?」。
私は自分自身に問い直すこともある。でもすぐに、「いや、婆ちゃんはもう死にたいのだ。死なせてあげなくてはならないのだ。」と思い直す。

私は後悔している。
このホームに入る前の市営住宅で、夜中トイレに起きた時に祖母は倒れた。3度目の脳卒中が原因と思われた。翌日、デイサービスで迎えに来た職員が、いつも準備して待っている祖母が声をかけても出てこないのを心配し、親戚に連絡して、ドアをこじ開けて部屋に入った。
その時、祖母は意識はあったらしいが、「もう病院へはいかない。このまま死ぬのだ。」と言っていたようだ。

親戚からすぐに私にも連絡が入り、市営住宅に向かった。到着した時は、ちょうど病院へ搬送する時だった。

休日だったため、救急で診てもらえる病院で診察してもらったが、もう脳卒中の形跡は認められない、おそらく軽いものだったのだろうということだった。

デイサービスの運営も行っているかかりつけの病院は、専門医がいないから何かあっても責任が持てないと、結局、公立病院に入院し、適切な処置を受けることにより、無事復活することになった。

そして、終の住まいとなったのがこの老人ホームである。
祖母は一見人当たりは良いが、実は人見知りが激しく、身内や親類以外で心を開いた人は、以前、家族5人で楽しく暮らしていた「自宅であったはずの家」の隣人だけだっただろう。

このホームの職員さんの対応や介護には、本当に頭が下がり感謝する想いだが、ホームの他の入所者の人との交流やデイサービスでのゲーム等は、祖母にとって苦痛だったに違いない。
祖母は一人で部屋にいる方が良かったはずだ。私が行くと、小声で「ここの人達はボケてる人が多いのよ。私はこの中に入るのは嫌いなのよ。」とよく愚痴をこぼしていた。

それでも自分自身でできることを出来たら良かったのだけど、入所してすぐ、誰にも迷惑をかけたがらない祖母は、一人でタンスの中の片づけをしていた時に倒れて骨盤を骨折することになった。それで、寝たきりになってしまったのだが、それまではホームの食事はおいしい、寂しいけど、きれいな部屋に住まわせてもらって良かったと言っていたのに、骨折の後からは「ご飯がおいしくない」と言うばかりになっていた。

そして、二言目には、「早く死にたい。あんた達に迷惑ばかりかける。でもどうしようもない」…それが口癖だった。

私は、市営住宅で倒れた時に、そのまま死なせてあげれば良かったのではないか?…そう後悔するのだ。

あの時であれば、本人は混沌としたままだっただろうし、最後に“こんな(あくまで祖母にとっては…という意味)”ホームで暮らさなければならなくなることもなかった。「一人で生きれた」…という自負とプライドをもって「祖母の想いどおりに」死ねたのではないだろうか。

そして今、祖母は、意識もありボケもない状態で、今なら「自ら死を選択できる」と悟って、1日1日“死”に近づこうとしているようだった。

自力で心臓が動かなくなる“時”を感じながら、人は死ななければならないのだろうか?

少しでも、楽に安らかに死の“時”を迎えられるよう、ずっと側にいて、手を握ってあげていたい。でも、そういうわけにもいかない…。仕事もあるし、私の家族もある。今度は私自身が自己満足するように、毎日、仕事帰りにホームに寄って、祖母の顔を見てから帰宅している。「こんなに毎日寄れるなら、もっと元気な時に頻繁に会いに行ってあげれば良かったじゃないか!」…自分を責める。

祖母の思い出…、
祖母はよく私を褒めてくれたが、優しいだけの人ではなく、厳格なところもあって、よく怒られもした。

私が小学生の頃、よく絵(マンガ)を描いていて、それを見ては「上手いものだ」と褒めてくれた。
「よく怒られた」ということは覚えているが、何で怒られたかは記憶にない。でも、とにかく「きちんとすること」、「まじめにすること」を祖母からは教わったように思う。
そう言えば、家の窓拭きをよく手伝わされた記憶がある。弟と二人でそれだけはよくやったような気がする。

私の父親がダメな人で、その代わりに母親が働いていたので、祖母は完全に私達兄弟の親代わりだった。
もう、私の記憶にはないが、祖母が何度も何度も話して聞かせてたことは、「あんた(私)を歩かせて、(年子の)弟を背負って、K池(自宅近くの池)に散歩に連れていった。たいへんだった。」ということ。

親類が小さな商店を経営していて、毎日のようにバスを使って行っていた。商店が忙しかった時、祖母が洗濯等の手伝いをしていたような記憶がある。そこの娘達(婆ちゃんにとって姪、KI姉ちゃん、KU姉ちゃん)が私達兄弟が小さい時に高校生くらいで、私達のことをかわいがってくれたことを覚えている。

「自宅であったはずの家」では、私達兄弟の部屋と祖母の部屋は隣どおしで、夜、ちゃんとふとんをかけて寝ているか、毎日確認してくれていたと思う。

あと、祖母は料理はあまり上手ではなかった。私が中学の時の弁当のおかずは、ちょっと人前では開きたくない(2色)ものだった。そのくせ「男子厨房に入らず」という古い考えの人だった。私は料理に興味があったので、大きくなるにつれ、よく台所に入るようになっていた。そのうち、祖母の気も変わったのか、「自分が野菜は切るから、あんた何か作らんね。」と言うようになっていた。

高校生くらいになったら、自分も多少「大人」になったつもりだったのか、祖母から言われることが少し疎ましく感じたこともあった。

祖母と一緒だった生活は、そこで終わる。
父親と母親が私が中3の時に離婚し(離婚させたのは私?)、それでも母は祖母にいろんなことで感謝していたので、一緒に暮らしていたのだが、私も弟も大学に進学してしまって家を出たため、母と祖母の関係は難しくなってしまった。
それで、祖母は一人で生活することを選んだのだった。本当は母親が出て行かざるをえないような状況を作ったに違いないが、祖母は私に「自分が望んで一人暮らしをしたかったのだ。」と一言も母親を責めるようなことは言わなかった。ただ一つのお願いは、「孫(私達兄弟)には会わせて欲しい。」だったそうだ。

学生時代を終え、帰郷して仕事についてからも、機会あるごとに祖母には会いにいった。結婚して子供ができるのに長くかかったけれども、ひ孫を連れて会いに行った。その度に祖母は「ありがとう、ありがとう」と手を合わせるようになっていた。

祖母には息子が4人いる…らしい。
一人(次男)は、生物学的・戸籍上私の父親になる人(残念ながらまだ生きてはいる)。長男と四男は行方知れず、兄弟間でも連絡はとれない(おそらく生きているらしい)。
今回、祖母の死(息子達にとって母の死)に際し、唯一連絡がとれ、ずっと付き添ってくれたのは三男の息子であった。関東の方で妻と二人暮らし。妻になる人も病気をして体調は芳しくないらしい。
次男(私の父親になる人)以外は、子をもうけていない。つまり、祖母にとって孫は私達兄弟のみということになる。

三男叔父だけは連絡がとれるので、これまで祖母が倒れたりするたびに帰郷してくれた。
今回も、ホームの祖母の自室に、ホームの方で準備してくれた簡易ベッドに寝泊まりして、約10日ほどを付き添ってくれた。三男叔父が来るまでは、夜中何回もベルを鳴らしていたらしいが、叔父が付き添うようになってからベルを押すことはなくなった。やっぱり寂しかったのだろう。叔父の帰郷は祖母にとってどんなに心強かったことだろうと思う。

15日の夕方、いつものように仕事帰りにホームに私は向かう。
その途中に叔父からケータイに電話があった。
「いよいよかもしれない。でも気を付けて、ゆっくりでいいからね。」
胸が高鳴る。この1週間毎日顔を見には行っていたが、やはり最期に間に合いたかった。

ホームにいつもの時間に着いて駐車場から走る。
部屋の戸を開くと、叔父のニコッとした顔があって、「落ち着いたよ」という言葉、間に合った。
いつものように2時間ほどいたが、落ち着いた状態だったので、私はいったん自宅にもどり、休憩することになった。でもおそらく今日・明日だろうということだった。

自宅に帰って夕食をとり、お風呂に入って、しばらく仮眠をとろうとした。でもこんな時はなかなか寝れるものではない。
そうこうしていたら、11時頃叔父から連絡があった。「いよいよかな。ゆっくりでいいから来れる?」

半分寝ているのか起きているのかわからない状態で、車を走らせる。
ホームに着いたら、叔父、KI姉夫婦、KU姉がいた。祖母は、また少し落ち着いたとのことだった。でも、確実に少しずつ生命レベルを下げている…という感じだった。医療器具は一切装着されていないので、どんな状態なのか数値ではわからない。
ホームの看護師に叔父が、「もう昏睡状態ですね」と言うと、看護師さんは静かに頷いた。

しばらくしてKI姉の旦那さんが帰宅し、叔父、KI姉、KU姉、私の4人で祖母を見守った。時折、口の中に胆が溜まる、それをホームの看護師さんにお願いしては吸引器でとってもらう。確実に“死”に近づいているのだけれど、できるだけ苦しまないようにしてあげたかった。それはここにいる4人全ての願いだった。

何回も何回も、「もういよいよか」というような状態に陥る。そうは大きくはないが規則正しく呼吸をしていたのが、しばらく呼吸できない状態になり、そしてその前段階よりも小さい呼吸になっていく。そしてその状態でしばらく安定していく。

その間、ほとんど休むことなく、叔父は左手を握り続け、私は右腕をさすり続けた。

昔、母にこう言ったことがある。
「あんたが死んでも泣くかどうかわからないけど、婆ちゃんが死んだら絶対に泣く。」
もちろん母と現在の状態(絶縁)になる前のことだったけど、いざ、祖母が死を前にして私は自分自身が泣くのかどうかわからない気持ちでいた。
悲しみ?、寂しさ?…どんな気持ちになるのだろう。変な言い方だが、「泣けるのかなぁ?」とまで考えていた。

とうとう、その“時”はやってきた。
2011年7月16日(土)、午前5時5分(正式には医師が確認した時間で午前5時35分)、祖母は息をひきとった。祖母は癌もあるとは聞いたが、ほんの小さいもので痛みなどはないということで、死が近づく間も、そして死に顔も本当に安らかなものだった。見守る私達も安らかな気持ちでいられた。
息をひきとった瞬間、自然に私の目から涙がこぼれた。号泣したわけではない。ごく自然に涙が止まらなかった。
「悲しみ」「寂しさ」などと表現しなくてもいいのかもしれないが、敢えて表現するなら、やはり祖母に対する「感謝」の気持ちと、96年間の祖母の人生に対してねぎらいの「お疲れ様」という気持ちだったと思う。

「トイレの神様」…この歌詞を少々お借りする。

 ♪ちゃんと育ててくれたのに
 ♪恩返しもしてないのに
 ♪いい孫じゃなかったのに
   …

 ♪ばあちゃん
 ♪ばあちゃん
 ♪ありがとう、

 ♪ばあちゃん
 ♪ホントに

 ♪ありがとう(そして、お疲れ様)

私のカーステでしばらくの間、鳴り響くに違いない...

このお休みの間に火葬を済ませた。
19日は疲れもあったので1日仕事を休ませてもらって、家で寝ていた。
やっと夕方起きる。
KO君とTO君、妻と私、いつもの家族4人が確かにいる。
でも、何か…誰か一人足りない気がする不思議な気持ちがずっと続く。
「婆ちゃんのことだろうか?」…わからない。この家で一緒に暮らしたことはない。1度だけ新築したからと言って、まだ元気な時に連れてきたことがあるだけだ。
でも、もう会うことはできないので、写真立てを買ってきて、遺品の中にあった婆ちゃんの写真を部屋に置こうと思っている。

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