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2011年7月20日 (水)

トイレの神様

「トイレの神様」…この記事名を付けながら、祖母が死を迎える“時”が来るのを待っている。
もちろん、「早く死んで欲しい」等と、“待ち望んでいる”気持ちなど微塵もない。祖母に関係する身内、親戚のほとんどが同じ気持ちを抱いているに違いない。

祖母は既に96歳、もちろん、「この年齢だから死んで良い」というわけでもない。しかし、訳あって老人ホームという施設で一人生きている。このホームに入る前も20年ほどの間、市営住宅で一人で生きてきた。

今のところ、意識もある。ほとんどと言っていいほど、ボケていないから、誰が会いに来たのかもはっきりわかっている様子だ。知っている人が来たら、何か話したいのだろう、一生懸命言葉を発しようとするが、もう言葉にならず、うめき声になるばかりだ。

しかし、本人の希望もあって、呼吸器も付けず、点滴もせず、医療的処置は何も行われていない。この数週間、口からの飲食をほとんど受け付けず、自ら“死”を迎え入れようとするかのように、ベッドに横たわっている。

「見殺しにしているのか?」。
私は自分自身に問い直すこともある。でもすぐに、「いや、婆ちゃんはもう死にたいのだ。死なせてあげなくてはならないのだ。」と思い直す。

私は後悔している。
このホームに入る前の市営住宅で、夜中トイレに起きた時に祖母は倒れた。3度目の脳卒中が原因と思われた。翌日、デイサービスで迎えに来た職員が、いつも準備して待っている祖母が声をかけても出てこないのを心配し、親戚に連絡して、ドアをこじ開けて部屋に入った。
その時、祖母は意識はあったらしいが、「もう病院へはいかない。このまま死ぬのだ。」と言っていたようだ。

親戚からすぐに私にも連絡が入り、市営住宅に向かった。到着した時は、ちょうど病院へ搬送する時だった。

休日だったため、救急で診てもらえる病院で診察してもらったが、もう脳卒中の形跡は認められない、おそらく軽いものだったのだろうということだった。

デイサービスの運営も行っているかかりつけの病院は、専門医がいないから何かあっても責任が持てないと、結局、公立病院に入院し、適切な処置を受けることにより、無事復活することになった。

そして、終の住まいとなったのがこの老人ホームである。
祖母は一見人当たりは良いが、実は人見知りが激しく、身内や親類以外で心を開いた人は、以前、家族5人で楽しく暮らしていた「自宅であったはずの家」の隣人だけだっただろう。

このホームの職員さんの対応や介護には、本当に頭が下がり感謝する想いだが、ホームの他の入所者の人との交流やデイサービスでのゲーム等は、祖母にとって苦痛だったに違いない。
祖母は一人で部屋にいる方が良かったはずだ。私が行くと、小声で「ここの人達はボケてる人が多いのよ。私はこの中に入るのは嫌いなのよ。」とよく愚痴をこぼしていた。

それでも自分自身でできることを出来たら良かったのだけど、入所してすぐ、誰にも迷惑をかけたがらない祖母は、一人でタンスの中の片づけをしていた時に倒れて骨盤を骨折することになった。それで、寝たきりになってしまったのだが、それまではホームの食事はおいしい、寂しいけど、きれいな部屋に住まわせてもらって良かったと言っていたのに、骨折の後からは「ご飯がおいしくない」と言うばかりになっていた。

そして、二言目には、「早く死にたい。あんた達に迷惑ばかりかける。でもどうしようもない」…それが口癖だった。

私は、市営住宅で倒れた時に、そのまま死なせてあげれば良かったのではないか?…そう後悔するのだ。

あの時であれば、本人は混沌としたままだっただろうし、最後に“こんな(あくまで祖母にとっては…という意味)”ホームで暮らさなければならなくなることもなかった。「一人で生きれた」…という自負とプライドをもって「祖母の想いどおりに」死ねたのではないだろうか。

そして今、祖母は、意識もありボケもない状態で、今なら「自ら死を選択できる」と悟って、1日1日“死”に近づこうとしているようだった。

自力で心臓が動かなくなる“時”を感じながら、人は死ななければならないのだろうか?

少しでも、楽に安らかに死の“時”を迎えられるよう、ずっと側にいて、手を握ってあげていたい。でも、そういうわけにもいかない…。仕事もあるし、私の家族もある。今度は私自身が自己満足するように、毎日、仕事帰りにホームに寄って、祖母の顔を見てから帰宅している。「こんなに毎日寄れるなら、もっと元気な時に頻繁に会いに行ってあげれば良かったじゃないか!」…自分を責める。

祖母の思い出…、
祖母はよく私を褒めてくれたが、優しいだけの人ではなく、厳格なところもあって、よく怒られもした。

私が小学生の頃、よく絵(マンガ)を描いていて、それを見ては「上手いものだ」と褒めてくれた。
「よく怒られた」ということは覚えているが、何で怒られたかは記憶にない。でも、とにかく「きちんとすること」、「まじめにすること」を祖母からは教わったように思う。
そう言えば、家の窓拭きをよく手伝わされた記憶がある。弟と二人でそれだけはよくやったような気がする。

私の父親がダメな人で、その代わりに母親が働いていたので、祖母は完全に私達兄弟の親代わりだった。
もう、私の記憶にはないが、祖母が何度も何度も話して聞かせてたことは、「あんた(私)を歩かせて、(年子の)弟を背負って、K池(自宅近くの池)に散歩に連れていった。たいへんだった。」ということ。

親類が小さな商店を経営していて、毎日のようにバスを使って行っていた。商店が忙しかった時、祖母が洗濯等の手伝いをしていたような記憶がある。そこの娘達(婆ちゃんにとって姪、KI姉ちゃん、KU姉ちゃん)が私達兄弟が小さい時に高校生くらいで、私達のことをかわいがってくれたことを覚えている。

「自宅であったはずの家」では、私達兄弟の部屋と祖母の部屋は隣どおしで、夜、ちゃんとふとんをかけて寝ているか、毎日確認してくれていたと思う。

あと、祖母は料理はあまり上手ではなかった。私が中学の時の弁当のおかずは、ちょっと人前では開きたくない(2色)ものだった。そのくせ「男子厨房に入らず」という古い考えの人だった。私は料理に興味があったので、大きくなるにつれ、よく台所に入るようになっていた。そのうち、祖母の気も変わったのか、「自分が野菜は切るから、あんた何か作らんね。」と言うようになっていた。

高校生くらいになったら、自分も多少「大人」になったつもりだったのか、祖母から言われることが少し疎ましく感じたこともあった。

祖母と一緒だった生活は、そこで終わる。
父親と母親が私が中3の時に離婚し(離婚させたのは私?)、それでも母は祖母にいろんなことで感謝していたので、一緒に暮らしていたのだが、私も弟も大学に進学してしまって家を出たため、母と祖母の関係は難しくなってしまった。
それで、祖母は一人で生活することを選んだのだった。本当は母親が出て行かざるをえないような状況を作ったに違いないが、祖母は私に「自分が望んで一人暮らしをしたかったのだ。」と一言も母親を責めるようなことは言わなかった。ただ一つのお願いは、「孫(私達兄弟)には会わせて欲しい。」だったそうだ。

学生時代を終え、帰郷して仕事についてからも、機会あるごとに祖母には会いにいった。結婚して子供ができるのに長くかかったけれども、ひ孫を連れて会いに行った。その度に祖母は「ありがとう、ありがとう」と手を合わせるようになっていた。

祖母には息子が4人いる…らしい。
一人(次男)は、生物学的・戸籍上私の父親になる人(残念ながらまだ生きてはいる)。長男と四男は行方知れず、兄弟間でも連絡はとれない(おそらく生きているらしい)。
今回、祖母の死(息子達にとって母の死)に際し、唯一連絡がとれ、ずっと付き添ってくれたのは三男の息子であった。関東の方で妻と二人暮らし。妻になる人も病気をして体調は芳しくないらしい。
次男(私の父親になる人)以外は、子をもうけていない。つまり、祖母にとって孫は私達兄弟のみということになる。

三男叔父だけは連絡がとれるので、これまで祖母が倒れたりするたびに帰郷してくれた。
今回も、ホームの祖母の自室に、ホームの方で準備してくれた簡易ベッドに寝泊まりして、約10日ほどを付き添ってくれた。三男叔父が来るまでは、夜中何回もベルを鳴らしていたらしいが、叔父が付き添うようになってからベルを押すことはなくなった。やっぱり寂しかったのだろう。叔父の帰郷は祖母にとってどんなに心強かったことだろうと思う。

15日の夕方、いつものように仕事帰りにホームに私は向かう。
その途中に叔父からケータイに電話があった。
「いよいよかもしれない。でも気を付けて、ゆっくりでいいからね。」
胸が高鳴る。この1週間毎日顔を見には行っていたが、やはり最期に間に合いたかった。

ホームにいつもの時間に着いて駐車場から走る。
部屋の戸を開くと、叔父のニコッとした顔があって、「落ち着いたよ」という言葉、間に合った。
いつものように2時間ほどいたが、落ち着いた状態だったので、私はいったん自宅にもどり、休憩することになった。でもおそらく今日・明日だろうということだった。

自宅に帰って夕食をとり、お風呂に入って、しばらく仮眠をとろうとした。でもこんな時はなかなか寝れるものではない。
そうこうしていたら、11時頃叔父から連絡があった。「いよいよかな。ゆっくりでいいから来れる?」

半分寝ているのか起きているのかわからない状態で、車を走らせる。
ホームに着いたら、叔父、KI姉夫婦、KU姉がいた。祖母は、また少し落ち着いたとのことだった。でも、確実に少しずつ生命レベルを下げている…という感じだった。医療器具は一切装着されていないので、どんな状態なのか数値ではわからない。
ホームの看護師に叔父が、「もう昏睡状態ですね」と言うと、看護師さんは静かに頷いた。

しばらくしてKI姉の旦那さんが帰宅し、叔父、KI姉、KU姉、私の4人で祖母を見守った。時折、口の中に胆が溜まる、それをホームの看護師さんにお願いしては吸引器でとってもらう。確実に“死”に近づいているのだけれど、できるだけ苦しまないようにしてあげたかった。それはここにいる4人全ての願いだった。

何回も何回も、「もういよいよか」というような状態に陥る。そうは大きくはないが規則正しく呼吸をしていたのが、しばらく呼吸できない状態になり、そしてその前段階よりも小さい呼吸になっていく。そしてその状態でしばらく安定していく。

その間、ほとんど休むことなく、叔父は左手を握り続け、私は右腕をさすり続けた。

昔、母にこう言ったことがある。
「あんたが死んでも泣くかどうかわからないけど、婆ちゃんが死んだら絶対に泣く。」
もちろん母と現在の状態(絶縁)になる前のことだったけど、いざ、祖母が死を前にして私は自分自身が泣くのかどうかわからない気持ちでいた。
悲しみ?、寂しさ?…どんな気持ちになるのだろう。変な言い方だが、「泣けるのかなぁ?」とまで考えていた。

とうとう、その“時”はやってきた。
2011年7月16日(土)、午前5時5分(正式には医師が確認した時間で午前5時35分)、祖母は息をひきとった。祖母は癌もあるとは聞いたが、ほんの小さいもので痛みなどはないということで、死が近づく間も、そして死に顔も本当に安らかなものだった。見守る私達も安らかな気持ちでいられた。
息をひきとった瞬間、自然に私の目から涙がこぼれた。号泣したわけではない。ごく自然に涙が止まらなかった。
「悲しみ」「寂しさ」などと表現しなくてもいいのかもしれないが、敢えて表現するなら、やはり祖母に対する「感謝」の気持ちと、96年間の祖母の人生に対してねぎらいの「お疲れ様」という気持ちだったと思う。

「トイレの神様」…この歌詞を少々お借りする。

 ♪ちゃんと育ててくれたのに
 ♪恩返しもしてないのに
 ♪いい孫じゃなかったのに
   …

 ♪ばあちゃん
 ♪ばあちゃん
 ♪ありがとう、

 ♪ばあちゃん
 ♪ホントに

 ♪ありがとう(そして、お疲れ様)

私のカーステでしばらくの間、鳴り響くに違いない...

このお休みの間に火葬を済ませた。
19日は疲れもあったので1日仕事を休ませてもらって、家で寝ていた。
やっと夕方起きる。
KO君とTO君、妻と私、いつもの家族4人が確かにいる。
でも、何か…誰か一人足りない気がする不思議な気持ちがずっと続く。
「婆ちゃんのことだろうか?」…わからない。この家で一緒に暮らしたことはない。1度だけ新築したからと言って、まだ元気な時に連れてきたことがあるだけだ。
でも、もう会うことはできないので、写真立てを買ってきて、遺品の中にあった婆ちゃんの写真を部屋に置こうと思っている。

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