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2012年4月30日 (月)

これが教育のプロなのか?

前記事に引き続き、ケース会議の時の話です。
交流学級の担任に不信感を抱きましたが、4月に異動してきた教頭先生の発言には憤りさえ感じました。

その教頭先生は、過去、自らも支援が必要な子供を受け持ったことがあるようです。
ただ、一度や二度、そういう子供を受け持ったことがあり、その時の経験のみで全てをわかったかのように、別の子供や保護者に対応の仕方を当てはめようとするのは如何なものでしょうかね?

発言の内容は、おおよそ次のようなものでした。
「TO君がクラスのお友達とトラブルがあったり、通常のお友達と同じことが出来ないことがあった時に、クラスの子供達に、TO君が出来ない理由を説明していいですか。クラスのお友達には、障害という“個性”を学ぶ良い機会になるですよ。」

これも、妻が「5年生版サポートブック」で、「周囲のお友達の多くは、TO君を特別扱いすることなく、ありのままを受け入れ接してくれています。…お友達にTO君の苦手な部分をカミングアウトして支援してもらいたいとは、今のところ考えていません。」と説明した後です(ちゃんとサポートブックに書いてもあります)。

私はこの教頭先生の発言に憤り、頭の中は“瞬間湯沸かし器”状態、噴火寸前でした。ただ、ここで怒りの感情をぶつけても仕方ないので、「どう言えば理解をしてもらえるだろう。」と頭の中で言葉を選んでました。

隣で怒りのオーラを出しているのを察知した妻が…、
「トラブルがあったり、出来ないことがあった時こそ、それをTO君に教える良いチャンスです。そういう時は、学校側から情報をフィードバックしてもらえば、家庭でもいくらでもできる手立てがあります。」
…さすがです。わが妻ながら頭が下がります。

教頭先生も、「それなら…」と反論する言葉はありませんでした。

しかし、何か問題があったら、即、カミングアウトなのでしょうか?
それに、うちのTO君のことを他の子の教材にしようとするとは何事でしょうか?

カミングアウトについては、以前の記事でも書いていますが、TO君には知的な遅れがあるわけではないので、本人自身が知らないことを、TO君に関わる支援者以外の無関係な他人に先に知らせるべきではないと考えています。そして、例え、カミングアウトすることになったとしても「障害名」だけが一人歩きするような形にはしたくないとも考えています。
更に、最近思うのは、カミングアウトが、その当事者にとって前向きになれ、周囲の子供達も成熟していて、カミングアウトされることでその子のことをより理解でき、また、わからないことがあったら、周囲の大人(学校では教師)が十分に説明できる環境にあるのならいいのですが、「問題があったらカミングアウト」→「この子はこういう特性を持ってるからみんな理解してあげて」というのは、とても短絡過ぎると思うのです。それでは周囲の子に、「この子はこんな特性を持ってるから、どんなことをしても仕方がないの、特別な子なの、だからみんな我慢してね。」と言っているようなものです。その結果はどうなるのでしょう。その子が周囲の子供達の和に入っていけるとは、決して思えません。特別視することを助長させているようなものです。

「カミングアウト」…その課程に至るまでに最大限の努力もせずに行う“それ”は、保護者も先生方も「それしか、もう成す術なし」と、自分の力量の無さを認め、諦めた時にするものではないかと、私は考えます。

うちのTO君を教材にする? これについてはもってのほかです。これまでの私たち家族の努力を何だと思っているのでしょうか? これまで、TO君を他者から「特別視」されないよう、1日1日戦ってきたのです。

教師というのは何を考えているのでしょう? 子供一人一人のことを考えているのでしょうか? それとも学級・学校全体の運営のこと? ある出来事で、子供の誰か一人が犠牲になっても、学級・学校全体として上手くいっていればそれでいいのでしょうか?
これまでKO君、TO君を受け持っていただいた一部の良識ある数名の先生、もちろん、TO君の支援学級の先生、地域の勉強会等で知り合えた先生方には、こんな先生はいないですし、多くの教師の方々は一生懸命、子供一人一人のことを考えていらっしゃるのでしょうが、子供一人一人の将来を見据え、「教師」という職業を頑張っている先生と、自分が受け持った学級が1年間無事過ぎればいいと思って教師生活を過ごしている先生との差はとても大きいと思いました。後者に担任が当たった場合、1年間、そのクラスの子供達は不幸です。いや、1年間だけでは済まず、もしかしたら一生にわたり癒えることのない“傷”を負うことになるかもしれません。

今回、TO君の交流学級の担任になった先生から、次のような発言もありました。
「TO君のように診断名が付いた子以外にも、いっぱい問題のある子がいるんです。診断名が付いてないだけなんです。」
それがわかっているなら、なぜ、それに対応しようとしない?

何の手もかからず、勉強も生活態度もいい子供を教えて何が楽しい? そんな子にしかわからないような指示をして、わからない子を「なぜわからないのか!」と罵倒する。
勉強の仕方がわからず、不適切な行動しかとれない子を上手く指導してこそ、教育のプロとして至極のおもしろさがあるのではないのだろうか。

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2012年4月22日 (日)

とくべつし ?

久しぶりのTO君関連ネタです。

KO君もTO君も早いものでとうとう5年生になってしまいました。
始業式が始まって2日目、今年度もケース会議を行って、新しい先生方にTO君の特性等について「5年生版サポートブック」を準備して話をさせていただきました。

今年度、特別支援級の担任はTO君が2年生の時から担任していただいている先生で、変更ありませんでした。4年生時、交流学級の先生がとても指導力のない方でクラスはほとんど学級崩壊状態、TO君はクラスのある特定の子との間でストレスを溜め、とても苦しい学校生活を送りましたので、5年の新しい交流学級の先生がどんな先生かわからない現状で、特別支援級の担任の先生が変更ないということは、TO君にとっても安心できることだろうとホッとしました(もちろん、最善ではないとは思っていますが…理想を言っても仕方ありません)。

ケース会議には、支援級担任、交流学級担任、教頭先生の出席でした。交流学級担任は昨年度も5年生を担任していた中堅の女性の先生、教頭先生は4月に異動で赴任された先生です。

あ”ーまどろっこしい。もう何がこの記事で言いたいか! 正直言います。第一印象だけかもしれませんが、交流学級の先生はおそらく今年もハズレです。昨年度の先生とは別の意味でハズレです。特別支援教育に対する理解はまずない。理解しようとする気持ちもない…と感じました。

妻が「5年生版サポートブック」について、一生懸命説明をした後だったのですが、
その交流学級の先生の発言の中で、
「私、これまで“とくべつし”の勉強あまりしてないので…。もっとかわいいかわいいしてあげなくちゃいけないのかなぁとか思ったんですけど…。」

言葉尻にこだわり過ぎてはいけないし、被害妄想的に考える必要もないと思いつつ、“とくべつし”って何? ケース会議の日から、喉にひっかかった魚な小骨のように、ずっと胸にひっかかったままです。

「特別支援教育」を略した言葉だとはわかっています。しかし、この“とくべつし=特別支”という言葉、教育現場や大学、研究機関で、通常、日常的に使われているのですか? 関係者の方、誰かお応えいただきたい。もし使われているのなら、止めて欲しい言葉だと個人的には思います。

「もっとかわいいかわいいしてあげなくちゃいけない…」
ん~、まさしく「特別視」的お考えです。

そういうわけで、この先生から発せられた“とくべつし”という言葉が、「特別視」にしか聞こえず、それからずっとひっかかっているのです。

私たちは、TO君を「特別扱い」して欲しいとは一言も言ってない。むしろ、学校で何か困ることがあるなら、情報をフィードバックしてくれれば、家庭で修正すると言ってる。「かわいいかわいい」なんて、親でもしてないよ。特別支援に在籍する子供達をそういう目で見ているということなんでしょうね。
それに、自分の教育方針?(方針ってたいそうなものじゃないなぁ…やり方)を、他人から言われて変えそうな先生でもなさそうです。自分のやり方は正しい…強い人でもあるのでしょうが、学ぶことを忘れた者に教師として成長はないと思います(偉そうですが)。

さぁ、こんな先生との1年間無事つき合っていけるでしょうか? 喧嘩しても始まりませんが、しないように頑張りたいと思います。親は先生に子供を人質にとられているようなものですからね。

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