2011年7月26日 (火)

変わり者 vs. 非常識者

祖母は生前、三男叔父のことを人に紹介する時いつも、「変わり者です。」と言っていたらしい。

確かに、私も、叔父の発言や行動、意見は、「変わってるなぁ」という印象を持ったことが幾度もある。

しかし、叔父のそれは、他の人と単に違った考え方や意見を持っているだけで、常識がないということではないのだ。

「常識とは何ぞや?」…という問いに、ちゃんと答えられるわけではないが、こういう人間の方が、「常識がない人間」ではないだろうか。

通夜?の日の夕刻…、
「ここ(葬祭場)にいたのか?」と、さも自分に連絡がなかったことを不満そうに、そして、更に、
「○○○(私の弟の名前)には、連絡したのか!」とこれまた責めるかのような言い方で叔父の前に現れたのは、私の母である(“母”とも書きたくないが、別の表現をするとややこしいので仕方がない)。これだけでも充分に常識がない。お悔やみの言葉を言うのが先だろう。

母はこれまで幾多も暴言を吐いている。
言い始めたらキリがないが、少々あげつらうと、

祖母が老人ホームに入ることが決まった時、その手配をしてくれたKI姉、KU姉に向かって、
「あんな老人ホームに入れて可哀想だ。私が引き取る。だけど、自分は旅行に行くことが多いから、その間はあなた達(KI姉、KU姉)が見なさい!」
そもそも、祖母が「自宅であったはずの家」から出て行かざるを得ない状況を作って、祖母を家から追い出したのは母である。何を今更必要以上に関わろうとするのか?
それとも、これまでの感謝と償いのために、いろいろと自分の人生が清算された今なら、祖母の最期を自分が完全に犠牲になって面倒みたい、看取りたいと言うのなら見上げた話ではあるが、“都合良く”看取ったという事実を作り、善人ぶりたいだけなのだ。

老人ホームの職員にもいろいろ注文をつけた。医療従事者だった経験を活かして(悪用して)、難癖をつけるのだ。祖母が望んだわけではない。祖母は我慢強い人で、人の迷惑になるのが一番嫌いな性格だった。私は人にはそれぞれの生き方や性分があると思っている。そして、実際にホームの職員にお世話になりながら生きているのは祖母なのだ。祖母が職員から嫌な扱いを受けないよう(そんな職員は誰もいないが…)、周囲の関係者は職員に気分よく祖母の世話をしてもらえるよう配慮すべきだと思っていた。もし不当な扱いを受けているとしたら別だが、ここのホームの職員はとてもよくやっていると思う。実際、祖母から職員への愚痴は一度も聞いたことがないし、祖母は「よくしてくれる。」としか言ったことはない。

確かに母は、このホームにいる祖母を何度か見舞っていた。そのたびに祖母は、「ありがたい、ありがたい。」と母に感謝の言葉を言ったらしいが、こんな(ホームの人には失礼な言い方だが)ホームで一人で暮らしているのである。誰が訪ねて来ても有り難く、うれしいはずである。
それを、この通夜?の晩、親戚一同の前で、さも自慢げに「祖母に感謝されていた」と話し始めたそうである。自分が追い出しておいて、よくそんなことが言えたものだ!

そして親戚に、叔父のことを、「私はこの人のペースに着いていけないんですよ。」…どういう意味???
叔父も面食らったらしいが、「誰も着いてきて欲しいとは言ってない。」と切り返した。そうしたら、「そうだけど…」と口ごもったそうだ。旦那でもない人に何を失礼なことを言っているのだろう。
後で叔父から話を聞いて、「私もあなたのペースに着いていけません。」と言ってやれば良かったですね。…と笑って話した。

ただ失礼な発言・行動はそれだけではなかった。あろうことか、喪主である叔父を差し置いて、さも自分が看取ったかのごとく、祖母の棺の側で親戚を案内し始めたそうなのだ。呆れて物が言えない。
更に何を言い出すかと思えば、祖母の実の息子である叔父に何の相談もなく、親戚達に「お骨は自分が預かる」と言うのだ。これには叔父もさぞ腹が立っただろう。

ただこれに騙される親戚もいるから手に負えない。×子さんは良い人だ。別れた亭主の母親の看病をした上に、看取ったのだと、お通夜?にまでこうして来てくれて…お骨まで預かってくれる。
叔父の言葉を借りれば、「ホラーの世界だ!」である。

冷静に考えたらおかしいだろう。常識ある親戚達は、「あの人は誰だ?」「何でいるんだ?」と、疑問を抱いたそうである。当たり前だ。

百歩譲って、別れた亭主の母親だけど、いろいろと恩義があったから、臨終に際して線香の一本でもあげさせてもらいたい…と言って、通夜?の席に来て、丁重に喪主や親戚の方々に挨拶をして失礼する…なら話はわかる。おそらく、これが「常識ある人間」のすることだと思う。
それを喪主を差し置いて、でかい面をして長々と通夜?の席に居座り、自分が主役のごとく、今ではただの赤の他人である元親戚達と話をしているのである。その姿が滑稽だと、なぜ気付かないのか?

私は、前記事にも書いたとおり、休憩のため一時帰宅していて難を逃れた。もし私がいたら追い出していただろう。叔父から電話があった時も、何度、直接ケータイで怒鳴ろうかと思ったが何とか踏みとどまった。「望まれない行動に対しては、“無視する”ことが基本」である。

翌日、叔父はもう来ないだろうと言っていたが、私はきっと来ると確信していた。案の定、神妙そうな顔をしてやってきた。それも親戚の一人を車に乗せ、自分も火葬場まで行く気満々なのである。
出棺するまでの間にも、大きな面をして元親戚と話し込む。私の話もしたらしく、「現在喧嘩中であること、更に自分はTO君のことを心配している。息子(私)は厳しいところがあるから、TO君をどのように教育しているのか心配なのだ。」と言い触らしていたそうなのだ。自分が理解がなかったことへの反省の弁はない(期待はしてないが)。絶句である。

私は無視を決め込んで葬祭場の外に出ていた。叔父は「最悪の展開だ!」と言っていたが、すぐに機転を利かせ、母が連れてきた親戚に、「最期の火葬場では、自分と孫(私のこと)の二人きりにさせてくれ!」と頼み込んで納得してもらった。

ようやく嵐が去り(台風という嵐はこの後だったが)、近親の者のみで無事火葬を済ませることができた。叔父が心安らかに自分の母親を葬送することができたと思いたい。

私の方は、これまでの母の幾多の悪行に加え、通夜?と火葬の日の言動・行動に腸が煮えくり返り、母の顔を見た途端、祖母が亡くなった悲しみよりも、母への憎悪の気持ちの方が上回り、祖母との最期を平穏な気持ちでいることができなかった。そのことがとても残念である。

これでまた、母を許すことができないことが一つ増えただけである。

こんな人間に比べれば、叔父はとても常識ある人間だと思う。通夜?の晩、母がいなくなるのを待っていたので遅くなったが、私は妻と子供達(祖母にとってはひ孫)を連れて最期の別れをさせた。その時、妻に叔父はこう言った。
「奥さん、ご免なさいね。旦那さんをずっと借りてて。子供達もたいへんなのに、申し訳ないねぇ。」
子供を持たぬ叔父がこんな優しいことを言う。母ならこんな言葉、一言も言わないだろう。「やって当然だ。」と思うくらいだ。

叔父の顔に泥を塗り、私の祖母との別れの時を台無しにした母を、私は絶対に許さない。
以前、母に言った、「あなたが死んでも泣くかどうかわからないけど、婆ちゃんが死んだら絶対に泣く。」は、こんな事態になることを暗示していたのかはわからないが、私が母の死に際し何かを執り行うことも、最期を迎えるその時もその場にいることは決してない。

叔父との濃密な1週間余りの日々で、以前は単に「変わり者の叔父さん」と思っていたが、自分とかなり意見が合うこともあることがわかった。
私も、「変わり者」と呼ばれようが構わない。
非常識者に何と言われようが、知ったことではないのだ。

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2011年7月24日 (日)

直葬

「直葬(ちょくそう)」とは、通夜や葬儀といった葬式を行わず、原則的に火葬のみで済ませる葬儀スタイルを言うそうである。以前から、身元不明者や生活困窮者のケースで火葬のみを行うことはあったが、近年、新しい葬送方法として認識されているようだ。

数年前から、三男叔父からは、「(祖母が)もしもの時、自分は遠方だから(妻の体調のこともあるし)間に合わないかもしれない。その時は焼くだけ焼いておいてくれ! その後、お別れの会でもすればいいから。」と、冗談まじり?、いや本気で言われていた。

今回、祖母が亡くなる数週間前に、老人ホームの責任者から連絡があり、ホームのかかりつけの病院の医師と今後の方針について確認をして欲しいということで、私と祖母の姪になる者数名で、その医師と会って話をした。その医師はとても優しい感じの方で、祖母本人の意思も充分に理解し、私たち身内・親類の気持ちも汲んでくれて、最期を看てくれることを約束してくれた。それはとてもありがたいことであった。前記事には書かなかったけれど、この医師は病院まで特急電車で1時間以上かかるところから通勤しているらしいが、祖母の臨終に際し、早朝5時5分頃のホームからの連絡にすぐに駆けつけてくれた。病院からホームまでおそらく車で20分以上はかかる。おそらく、前の晩は病院で待機してくれていたのだろう。ホームからの事前の説明では医師が来てくれるのに、もしかしたら1日くらい時間を要するかもしれないと言われていたので、すぐに来て頂いたことにとても感謝している。

話は逸れたが、医師との話し合いの後、ホームから亡くなった後のことも親類間で話合っていて欲しいと言われた。具体的には葬祭場をどこにするのか…と言ったこと。これについては姪の一人が「○○院はどうだろう。あそこは家族葬等をよくしてくれる。」という提案があったので、比較的簡単に葬祭場候補は決まった。
しかし、問題は葬儀のやり方である。私は既に叔父から頼まれていたので、冗談混じりにそのことを言ってみた。その場にいた皆が、「冗談でしょ!」みたいな感じであった(やっぱり…、普通そういう反応だよね)。

叔父にはその夜連絡し、皆、看取り方に文句はないが、葬儀についてはかなり抵抗があると思う…と伝えた。

7月に入るとすぐ、叔父は帰郷して、祖母のホームで寝泊まりすることになった。私も休日にホームに行って、叔父と今後について打ち合わせた。

叔父はとにかく、「坊主には一銭も払いたくない。坊主に金を出すくらいなら、来てくれた人にその分の金を配る!」という主張だった。

しかし、「直葬」で問題視化されている、故人を葬ることを軽んじているわけでもない、宗旨・宗派を知らないわけでもない(…というより、よく勉強されている)、無宗教論者というわけでもない、むしろ、いろいろ勉強して知っているからこそ、「葬式はいらない、戒名もいらない」と言っているのだと感じた。

数年前から、祖母が倒れたりすることで、よく帰郷することになったこの叔父と話をすることが多くなったのだが、それまでは子供の頃会ったきりであった。20年ほど前に祖母が最初に脳卒中で倒れた時に見舞った時があったが、久しぶりに会った叔父と顔を合わせた瞬間、「もう来なくていいから…君達には関係ないことだから…」だった。久しぶりに会った甥っ子に、それも祖母を見舞いに来たのに、いきなりそういう言葉か?と、その時はびっくりした。今考えると、祖母はもう亡くなるだろうから、叔父一人の責任で祖母を葬むろうと思って言った言葉だったのかもしれない。

話す機会が多くなってからも、よく叔父は、「自分は母の息子として扱われたことがない。母にとって息子は次男(私の一応父親)だけだった。自分が来ているのは、自分しか連絡がとれないから仕方なく来ているだけだ。」等と恨み言のように言っていた。

だから、「焼くだけ焼いておいて!」ということには、「死んだらそのままにしておくわけにはいかないから、とりあえず仕方ないから焼いておいて!」というように最初は聞こえていた。

でも、特に祖母が亡くなるまでの1週間ほど、私も毎日祖母のところに通い、祖母はもう話すこともできない状態で眠りについたりするので、2時間ほどの間、叔父といろいろなことについて語り合った。

それをここでどう表現していいかは難しいが、叔父は自分の母親のことを本当はとても大事に想っていて、口では義理でやっているようなことを言っているが、自分の手で最期をきちんと看取ってあげたい、葬ってあげたいと想っているのだということを感じることができた。
実際、私達兄弟が大学に進学し、私の母と祖母が上手く行かなくなった頃、祖母が息子(叔父)のところを訪ねた時に、「一緒に暮らさないか?」と祖母に勧めていたということだった。
前記事には書かなかったが、最期を看取った瞬間も、叔父は何も言わず、部屋を一人で出ていった。どうしていたかはわからない。でも、一人、母の死を悼んでいたのではないかと思っている。

本当に言葉どおり、「焼いておいて!」なら、奥さんの体調も芳しくないのに、遠方から早くに帰郷しては来ない。私に任せて、亡くなった後にやってくるだろう。

私は、この叔父の葬送方法に協力することに決めた。

「葬式無用、戒名不用」…白洲次郎の遺言なのだそうだ。私も白洲次郎の名前は聞いたことがあったが、叔父はその言葉をよく口に出して「いいねぇ、いいねぇ」と言っていた。それは単に「坊主に金を出したくない」と言った言葉どおりのものではなく、おそらく白洲次郎もそうであったのではないかと思うが、葬式に義理で知らない人が大勢集まるのではなく、本当に故人を偲ぶ人だけが集まってもらえればいい、費用のかかる見栄の儀式にとらわれず、また、死んでまで戒名というもので格付けされるのまっぴら御免(勉強不足で間違ってたらすみません)…ということに惹かれて言っていたのではないかと思う。
私自身も職場で訃報を聞くたびに、“違和感”を感じている。比較的似た感覚だなぁと感じた。

あるネットの情報を見ると、「正確な統計はないが、葬儀社からの印象をまとめると少なくとも10%ほど、関東など都会では30~40%の人が直葬を希望している」。
…とは言っても、ここは地方、更に祖母の田舎は治外法権がまだ通用するのではないかというくらいの閉鎖的ど田舎。叔父の進歩的?意見が通用するかどうか…。
「葬式もしない、坊主も呼ばない」に加えて、更に叔父は、香典も受け取らない、本人は喪服も持ってないからと、喪服も着るつもりもない。

「喪服も着ない」んですか? その辺は私も気にする。葬式はしなくても、通夜?の晩や翌日、火葬場に行く前に、葬祭場には親戚が最期の別れにやってくるだろう。それを平服で迎えるのは失礼では?
でも、喪主である叔父が平服なら、喪主に恥をかかせるわけにもいかない…。

それで私がした手段は、次のような文書を作って、祖母が亡くなった時に、親戚にこの内容で連絡してもらうことを提案した。これを読んだ叔父は、「完璧だよ。いいねぇ。直葬!」と満足げだった。
叔父の進歩的?で過激な?発言(意向)を、超保守的?な親戚にできるだけ柔らかく伝え、自分自身も自己防衛しようという意図有り有りである。

***** 文書の概要 *****
親戚・関係者各位

   喪主:叔父の氏名

 母・○○○子におきましては、7月△日・○時□分、終の棲家となった老人ホーム「□□□□」の自室で静かに息をひきとりました。
 つきましては、下記祭場にて、故人が生前お世話になりました方々と、最期のお別れをさせていただきたいと思います。
 なお、故人も華美なことは好まず、近親の者で静かに見送りたく、通夜・葬儀・告別式等の儀式は執り行いませんのでご了承下さい。

※ なお、お気持ちはありがたく感謝いたしますが、香典の受け取りはご遠慮申し上げます。また、儀式等は行いませんので、平服でお越し下さい。
*****************

果たして、その効果は…、

通夜?の日の午後3時すぎ頃、私は一端、叔父と二人の通夜?の夜明かしと、翌日の火葬の準備&休憩を兼ね帰宅した。

休憩していた私のケータイが鳴る。叔父からの電話だった。出ると「田舎から親戚一同、一個連隊が到着した。香典を受け取らないというのに、皆、そんなこと言ってたって、こうなるんだよ!」と言って、叔父は数の力に圧倒され断ることもできず、あっけなく撃沈したとのことだった。

それに数名で静かに送るはずだったのに、酒はないもののその場は宴会状態だと言う。KI姉とKU姉がつまみ等を買って持ってきて対応してくれた。

一個連隊が去った後、叔父と二人きりの通夜?が始まった。叔父は様々な分野の本をよく読み、短歌も嗜む。バイクが好きで山登りも好き、多趣味で話は飽きなかった。70歳を過ぎているのに、とてもそうは見えなかった。祖母も生前、「おまえ(三男叔父のこと)は歳をとらないねぇ。田舎の同年代の者は皆、爺さんになってるよ。」と言ったらしい。

翌日は、小雨まじりの天気だった。台風も近づいているという情報だった。あまり暑くなくて良かったかもしれない。

この日も叔父の思惑と反して、親戚一同がかけつけて来た。近親の者のみで送るということにはならなかったが、それはこれまで祖母が皆に愛されてきた証拠だったのだと思う。叔父の「来なくていいのに…」という文句の裏には、感謝の気持ちはあったと思っている。

儀式はなく、お坊さんもなく、最期に来てくれた人で棺に花を供えた。一人一人が祖母への想いを感じていただろう(招かれざる者が一人混ざっていたせいで、私の気持ちはそれどころではなくなっていたが…、そのことはまた記事にする)。

火葬場では、本当に近親の者のみで祖母を送った。お骨もその者のみで拾うことが出来た。
最期は、叔父の望みどおりの葬送が出来たと思う。

「直葬」というスタイルの葬送方法には賛否両論あるだろう。でも、儀式をしようがしまいが、当たり前のことだけれども、故人を心から送りたいという気持ちが大切なのだと私は思う。
私自身もこの方法で葬られてもいいと思うが、もう一つ、「死に行くものは文句は言うまい」というのも言える。どうせ私が先に逝くのだから(ただの希望)、妻には葬送の方法まで注文をつけるのは止めておこうと思う。

そして本日、叔父から電話があった。もらった香典を叔父の地元の特産品と一緒に「御車代」として送り返したと言う連絡だった。火葬の日の朝から、そんなことを言っていたのは聞いてはいたが、本当に返したようだ。叔父は「初志貫徹だ!」と満足げに電話の向こうで笑っていた。受け取った者はさぞ驚くことだろう。出した香典のお金がそのまま送り返されてくるのだ。仰天するに違いない。

祖母はあの世でどう思っていることだろうか。
(息子のことを)「変わり者です。」と笑って許してくれてる…と思いたい。

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2011年7月20日 (水)

トイレの神様

「トイレの神様」…この記事名を付けながら、祖母が死を迎える“時”が来るのを待っている。
もちろん、「早く死んで欲しい」等と、“待ち望んでいる”気持ちなど微塵もない。祖母に関係する身内、親戚のほとんどが同じ気持ちを抱いているに違いない。

祖母は既に96歳、もちろん、「この年齢だから死んで良い」というわけでもない。しかし、訳あって老人ホームという施設で一人生きている。このホームに入る前も20年ほどの間、市営住宅で一人で生きてきた。

今のところ、意識もある。ほとんどと言っていいほど、ボケていないから、誰が会いに来たのかもはっきりわかっている様子だ。知っている人が来たら、何か話したいのだろう、一生懸命言葉を発しようとするが、もう言葉にならず、うめき声になるばかりだ。

しかし、本人の希望もあって、呼吸器も付けず、点滴もせず、医療的処置は何も行われていない。この数週間、口からの飲食をほとんど受け付けず、自ら“死”を迎え入れようとするかのように、ベッドに横たわっている。

「見殺しにしているのか?」。
私は自分自身に問い直すこともある。でもすぐに、「いや、婆ちゃんはもう死にたいのだ。死なせてあげなくてはならないのだ。」と思い直す。

私は後悔している。
このホームに入る前の市営住宅で、夜中トイレに起きた時に祖母は倒れた。3度目の脳卒中が原因と思われた。翌日、デイサービスで迎えに来た職員が、いつも準備して待っている祖母が声をかけても出てこないのを心配し、親戚に連絡して、ドアをこじ開けて部屋に入った。
その時、祖母は意識はあったらしいが、「もう病院へはいかない。このまま死ぬのだ。」と言っていたようだ。

親戚からすぐに私にも連絡が入り、市営住宅に向かった。到着した時は、ちょうど病院へ搬送する時だった。

休日だったため、救急で診てもらえる病院で診察してもらったが、もう脳卒中の形跡は認められない、おそらく軽いものだったのだろうということだった。

デイサービスの運営も行っているかかりつけの病院は、専門医がいないから何かあっても責任が持てないと、結局、公立病院に入院し、適切な処置を受けることにより、無事復活することになった。

そして、終の住まいとなったのがこの老人ホームである。
祖母は一見人当たりは良いが、実は人見知りが激しく、身内や親類以外で心を開いた人は、以前、家族5人で楽しく暮らしていた「自宅であったはずの家」の隣人だけだっただろう。

このホームの職員さんの対応や介護には、本当に頭が下がり感謝する想いだが、ホームの他の入所者の人との交流やデイサービスでのゲーム等は、祖母にとって苦痛だったに違いない。
祖母は一人で部屋にいる方が良かったはずだ。私が行くと、小声で「ここの人達はボケてる人が多いのよ。私はこの中に入るのは嫌いなのよ。」とよく愚痴をこぼしていた。

それでも自分自身でできることを出来たら良かったのだけど、入所してすぐ、誰にも迷惑をかけたがらない祖母は、一人でタンスの中の片づけをしていた時に倒れて骨盤を骨折することになった。それで、寝たきりになってしまったのだが、それまではホームの食事はおいしい、寂しいけど、きれいな部屋に住まわせてもらって良かったと言っていたのに、骨折の後からは「ご飯がおいしくない」と言うばかりになっていた。

そして、二言目には、「早く死にたい。あんた達に迷惑ばかりかける。でもどうしようもない」…それが口癖だった。

私は、市営住宅で倒れた時に、そのまま死なせてあげれば良かったのではないか?…そう後悔するのだ。

あの時であれば、本人は混沌としたままだっただろうし、最後に“こんな(あくまで祖母にとっては…という意味)”ホームで暮らさなければならなくなることもなかった。「一人で生きれた」…という自負とプライドをもって「祖母の想いどおりに」死ねたのではないだろうか。

そして今、祖母は、意識もありボケもない状態で、今なら「自ら死を選択できる」と悟って、1日1日“死”に近づこうとしているようだった。

自力で心臓が動かなくなる“時”を感じながら、人は死ななければならないのだろうか?

少しでも、楽に安らかに死の“時”を迎えられるよう、ずっと側にいて、手を握ってあげていたい。でも、そういうわけにもいかない…。仕事もあるし、私の家族もある。今度は私自身が自己満足するように、毎日、仕事帰りにホームに寄って、祖母の顔を見てから帰宅している。「こんなに毎日寄れるなら、もっと元気な時に頻繁に会いに行ってあげれば良かったじゃないか!」…自分を責める。

祖母の思い出…、
祖母はよく私を褒めてくれたが、優しいだけの人ではなく、厳格なところもあって、よく怒られもした。

私が小学生の頃、よく絵(マンガ)を描いていて、それを見ては「上手いものだ」と褒めてくれた。
「よく怒られた」ということは覚えているが、何で怒られたかは記憶にない。でも、とにかく「きちんとすること」、「まじめにすること」を祖母からは教わったように思う。
そう言えば、家の窓拭きをよく手伝わされた記憶がある。弟と二人でそれだけはよくやったような気がする。

私の父親がダメな人で、その代わりに母親が働いていたので、祖母は完全に私達兄弟の親代わりだった。
もう、私の記憶にはないが、祖母が何度も何度も話して聞かせてたことは、「あんた(私)を歩かせて、(年子の)弟を背負って、K池(自宅近くの池)に散歩に連れていった。たいへんだった。」ということ。

親類が小さな商店を経営していて、毎日のようにバスを使って行っていた。商店が忙しかった時、祖母が洗濯等の手伝いをしていたような記憶がある。そこの娘達(婆ちゃんにとって姪、KI姉ちゃん、KU姉ちゃん)が私達兄弟が小さい時に高校生くらいで、私達のことをかわいがってくれたことを覚えている。

「自宅であったはずの家」では、私達兄弟の部屋と祖母の部屋は隣どおしで、夜、ちゃんとふとんをかけて寝ているか、毎日確認してくれていたと思う。

あと、祖母は料理はあまり上手ではなかった。私が中学の時の弁当のおかずは、ちょっと人前では開きたくない(2色)ものだった。そのくせ「男子厨房に入らず」という古い考えの人だった。私は料理に興味があったので、大きくなるにつれ、よく台所に入るようになっていた。そのうち、祖母の気も変わったのか、「自分が野菜は切るから、あんた何か作らんね。」と言うようになっていた。

高校生くらいになったら、自分も多少「大人」になったつもりだったのか、祖母から言われることが少し疎ましく感じたこともあった。

祖母と一緒だった生活は、そこで終わる。
父親と母親が私が中3の時に離婚し(離婚させたのは私?)、それでも母は祖母にいろんなことで感謝していたので、一緒に暮らしていたのだが、私も弟も大学に進学してしまって家を出たため、母と祖母の関係は難しくなってしまった。
それで、祖母は一人で生活することを選んだのだった。本当は母親が出て行かざるをえないような状況を作ったに違いないが、祖母は私に「自分が望んで一人暮らしをしたかったのだ。」と一言も母親を責めるようなことは言わなかった。ただ一つのお願いは、「孫(私達兄弟)には会わせて欲しい。」だったそうだ。

学生時代を終え、帰郷して仕事についてからも、機会あるごとに祖母には会いにいった。結婚して子供ができるのに長くかかったけれども、ひ孫を連れて会いに行った。その度に祖母は「ありがとう、ありがとう」と手を合わせるようになっていた。

祖母には息子が4人いる…らしい。
一人(次男)は、生物学的・戸籍上私の父親になる人(残念ながらまだ生きてはいる)。長男と四男は行方知れず、兄弟間でも連絡はとれない(おそらく生きているらしい)。
今回、祖母の死(息子達にとって母の死)に際し、唯一連絡がとれ、ずっと付き添ってくれたのは三男の息子であった。関東の方で妻と二人暮らし。妻になる人も病気をして体調は芳しくないらしい。
次男(私の父親になる人)以外は、子をもうけていない。つまり、祖母にとって孫は私達兄弟のみということになる。

三男叔父だけは連絡がとれるので、これまで祖母が倒れたりするたびに帰郷してくれた。
今回も、ホームの祖母の自室に、ホームの方で準備してくれた簡易ベッドに寝泊まりして、約10日ほどを付き添ってくれた。三男叔父が来るまでは、夜中何回もベルを鳴らしていたらしいが、叔父が付き添うようになってからベルを押すことはなくなった。やっぱり寂しかったのだろう。叔父の帰郷は祖母にとってどんなに心強かったことだろうと思う。

15日の夕方、いつものように仕事帰りにホームに私は向かう。
その途中に叔父からケータイに電話があった。
「いよいよかもしれない。でも気を付けて、ゆっくりでいいからね。」
胸が高鳴る。この1週間毎日顔を見には行っていたが、やはり最期に間に合いたかった。

ホームにいつもの時間に着いて駐車場から走る。
部屋の戸を開くと、叔父のニコッとした顔があって、「落ち着いたよ」という言葉、間に合った。
いつものように2時間ほどいたが、落ち着いた状態だったので、私はいったん自宅にもどり、休憩することになった。でもおそらく今日・明日だろうということだった。

自宅に帰って夕食をとり、お風呂に入って、しばらく仮眠をとろうとした。でもこんな時はなかなか寝れるものではない。
そうこうしていたら、11時頃叔父から連絡があった。「いよいよかな。ゆっくりでいいから来れる?」

半分寝ているのか起きているのかわからない状態で、車を走らせる。
ホームに着いたら、叔父、KI姉夫婦、KU姉がいた。祖母は、また少し落ち着いたとのことだった。でも、確実に少しずつ生命レベルを下げている…という感じだった。医療器具は一切装着されていないので、どんな状態なのか数値ではわからない。
ホームの看護師に叔父が、「もう昏睡状態ですね」と言うと、看護師さんは静かに頷いた。

しばらくしてKI姉の旦那さんが帰宅し、叔父、KI姉、KU姉、私の4人で祖母を見守った。時折、口の中に胆が溜まる、それをホームの看護師さんにお願いしては吸引器でとってもらう。確実に“死”に近づいているのだけれど、できるだけ苦しまないようにしてあげたかった。それはここにいる4人全ての願いだった。

何回も何回も、「もういよいよか」というような状態に陥る。そうは大きくはないが規則正しく呼吸をしていたのが、しばらく呼吸できない状態になり、そしてその前段階よりも小さい呼吸になっていく。そしてその状態でしばらく安定していく。

その間、ほとんど休むことなく、叔父は左手を握り続け、私は右腕をさすり続けた。

昔、母にこう言ったことがある。
「あんたが死んでも泣くかどうかわからないけど、婆ちゃんが死んだら絶対に泣く。」
もちろん母と現在の状態(絶縁)になる前のことだったけど、いざ、祖母が死を前にして私は自分自身が泣くのかどうかわからない気持ちでいた。
悲しみ?、寂しさ?…どんな気持ちになるのだろう。変な言い方だが、「泣けるのかなぁ?」とまで考えていた。

とうとう、その“時”はやってきた。
2011年7月16日(土)、午前5時5分(正式には医師が確認した時間で午前5時35分)、祖母は息をひきとった。祖母は癌もあるとは聞いたが、ほんの小さいもので痛みなどはないということで、死が近づく間も、そして死に顔も本当に安らかなものだった。見守る私達も安らかな気持ちでいられた。
息をひきとった瞬間、自然に私の目から涙がこぼれた。号泣したわけではない。ごく自然に涙が止まらなかった。
「悲しみ」「寂しさ」などと表現しなくてもいいのかもしれないが、敢えて表現するなら、やはり祖母に対する「感謝」の気持ちと、96年間の祖母の人生に対してねぎらいの「お疲れ様」という気持ちだったと思う。

「トイレの神様」…この歌詞を少々お借りする。

 ♪ちゃんと育ててくれたのに
 ♪恩返しもしてないのに
 ♪いい孫じゃなかったのに
   …

 ♪ばあちゃん
 ♪ばあちゃん
 ♪ありがとう、

 ♪ばあちゃん
 ♪ホントに

 ♪ありがとう(そして、お疲れ様)

私のカーステでしばらくの間、鳴り響くに違いない...

このお休みの間に火葬を済ませた。
19日は疲れもあったので1日仕事を休ませてもらって、家で寝ていた。
やっと夕方起きる。
KO君とTO君、妻と私、いつもの家族4人が確かにいる。
でも、何か…誰か一人足りない気がする不思議な気持ちがずっと続く。
「婆ちゃんのことだろうか?」…わからない。この家で一緒に暮らしたことはない。1度だけ新築したからと言って、まだ元気な時に連れてきたことがあるだけだ。
でも、もう会うことはできないので、写真立てを買ってきて、遺品の中にあった婆ちゃんの写真を部屋に置こうと思っている。

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2010年12月16日 (木)

感謝

blog を更新してないにも関わらず、最近になって私の周囲の関係者数名にその存在が知られております。
だから更新ってわけではないのですが、年の瀬も押し迫り、今年の出来事は今年のうちに up しておかないと…と思い、重い筆(キーボード)を叩いております。


まず、11月初めのことですが…、妻の母親(義母)をおくりました。

病気のことは、1年半前からわかっていたことで、その時点で医師から「余命3ヶ月、もしからしたら1ヶ月かもしれない」と告げられていました。
3年前、住み慣れた家を全て片付け、遠方からご夫婦共に引っ越してこられ、私達家族と、新居(二世帯住宅)で一緒に暮らし始めたばかりのことでしたので、お父さん(義父)と妻のショックはかなり大きなものでした。

その後、本人に告知をした上での闘病生活になったわけですが、数回の入退院を繰り返しながらも、それでも気丈に振る舞われながら、私達家族、特に、KO君、TO君にはいつも優しく、笑顔を見せてくれました。

そして、最期を迎えることになった入院の直前まで、自分でできることは全部自分でやる強いお母さんでした。

私自身は、お母さんのために何もしてあげることができなかったと思いますが、最期に実の娘と孫二人の顔を毎日見られる我が家を作って本当に良かったなぁと思います。


お母さんには、
大学を卒業する間際に、妻と結婚を前提に交際することになり、「そんな遠いところに嫁にいくなら、親子の縁を切って行け!」と言われたというお父さんを説得して下さったそうです。でも、そんなことを私に対しておくびにも出されたことはありません。

KO君、TO君が生まれ、幾度か遠方から以前住んでいた官舎に遊びに来てもらいましたが、本当にKO君、TO君にいつも優しく、いつも笑顔で接してくれました。おそらく、そんなに遊び上手ではない方のようでしたが、一生懸命、二人の相手をし、二人が話せるようになったら、一生懸命に話を聴いてくれてました。

そして、いつも自分のことより、家族のことを想い、心配し、最期の最期の時も、私の身体のことまで心配してくださいました(このことはまた別記事に書きます)。

「もう少し長く…」と言って、どれくらいなら満足するというものではありませんが、それでももうあと数年でも長く、KO君、TO君の成長を楽しんでもらえたら良かったのに…と心残りはありますが、こればかりはどうしようもないことなのでしょう。

葬儀は、親戚の方々も遠方でお年を召されている方ばかりなので、本当に家族だけで執り行うことになってしまい、それも私がこんな遠くに妻を連れてきたせいだなぁと心苦しい想いでいっぱいでした。本当に申し訳ありませんでした。


お母さんには、「感謝」という言葉につきます。
葬儀の時のお父さんからの最期の別れの言葉…「ありがとう」。今となっては、遺影に手を合わせ、心の中で想うことしかできませんが、本当に「感謝の気持ち」でしか表現できない方だったと思います。

チャーミーグリーンのCMにそのまま出演しても良いくらい仲の良かったご夫婦。そのお二人を目標に、これからも結婚生活&子育てをしていけたらいいなと思っています。私達には見えないのでしょうけど、お父さん、妻、KO君、TO君のことをいつも見守ってください。本当に今までありがとうございました。

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2008年10月25日 (土)

けが人続出

妻が骨折したのは、妻の blog に書いてあります。
本人、とても痛がっていますし、家事の何をするのも不自由だと、たいへんそうであります。私が手伝おうにも、妻でしかできないことがありますからねぇ。たいへんですねぇ。お疲れ様です。

そんな中、昨日(金曜日)、支援センターの療育に妻が双子達を連れて行った時のことです。
二人ともこの支援センターの療育を楽しみにしております。
その はやる気持ちがいけなかった(?)のですが、二人ともセンターの駐車場に着くなり、妻の「走るな-!」の声を遮って走り始めたそうです。

そしたら、TO君がおもいっきりこけてしまい、それも顔・頭から、地面のアスファルトに向けてぶつけてしまったらしいです。
とっさにかばおうとする手は出てないようなのですよ。顔面(鼻、目の下、額)および側頭部を打っているようです。どんなこけ方して、どんなところで、どうやって打ったんだ~?って感じです。ん~、でもやっぱりそういう時に、とっさに手が出ない人なのですねぇ、あなたは…。

とりあえず、施設内にいらっしゃる看護師さんが手当をしていただいたようなのですが、額の部分および側頭部には、結構な「こぶ」&皮下出血の跡…。
看護師さんからも、一応医師に診てもらった方が良いとのことで、その看護師さんの知り合いの外科病院に連絡をしてもらって、連れていきました。

妻から私に連絡があり、私はまだもう少し就業時間があったのですが、上司に相談して早退させていただきました(今の上司はとても理解のある方々ばかりです。だから、最近“愚痴ログ”が少ないのか? いや愚痴はいっぱいあるのだけれど、それを書く暇もないくらい忙しいのです)。

病院に着くと、TO君は少し不機嫌そうな顔はしていましたが、まぁ落ち着いていました。頭ぶつけた時、そして、それで支援センターの療育が出来ないとわかった時は、そりゃーものすごい泣き方だったそうです。
妻が、「久しぶりに、TO君の“はわわ泣き”を聞いた」と言っていました。「病院に着いた時は、TO君泣き疲れたのか寝ていて、私、骨折してるのに、TO君を抱っこして病院に入ったんだから…」とも言っていました。そりゃーたいへんだったでしょう。最近のTO君の育ち(太り)具合は結構なものですからね。

TO君は今日もう1回、念のため同じ外科病院に行くことになっていました(…何ともありませんでした)。
しかし、今日は、私は職場対抗のソフトボール大会があり、妻と代わってやることができませんでした。
TO君のことは気になりながら、妻のことも気にしながら、「(TO君は)まぁ、大丈夫だろう」ということと、うちの職場の参加人数が6人しかおらず、他の職場から3人の助っ人を呼んでの出場ということで、直前のキャンセルは迷惑かけるよなぁということで、朝もはよから乗り合わせて県庁所在地にあるグランドまで行ってきました(片道1時間半かかります。毎年あるのですが、正直言って、休みの日をつぶし、遠くまで行ってしたくないと思っています。人数もいないのだから出場辞退すればいいのに!)。

しかし、今度は…、日頃運動不足がたたってか、私の足がつった(?) もしくは軽い肉離れ状態(?)になってしまいました。あぁ、情けないったらありゃしない。
帰って来て、近くのドラッグストアに行き、湿布とサポーター買ってきてしています。
歩くのは、少しかばいながらでも、それほどでもないのですが、じっとしていた後に動き出すのがとても痛いです。

妻の骨折→TO君の頭→私の足 と続いたら、今度はKO君でしょうか? KO君はどこを? 不吉です。
あいつも、スーパーボールみたいに跳ねまくって、あちこちぶつける奴なんです。何にないところでよくこけるし、心配です。
今から、「気をつけろよ!」と注意しているところです。

しかし、不注意、不摂生には気をつけなければいきません。
そして妻の不満…、「私が骨折してまだ治ってなくて、みんなに労ってもらわないといけないのに、何で今度はあんた達はけがしてくんのよー!、ゆっくりできないじゃない!」と言ってます。
そういう運命なんでしょうねぇ。治ったらまた手伝いますから、許してください。

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2008年9月30日 (火)

10年ぶり…

9月中旬、私の業務に関係する某学会に参加し、私も日頃の研究成果(?)を発表してきました。
この学会は、ある生物に関しての様々な分野の研究者・生産者・企業等が所属しており、それに併せて研究発表の内容も多岐にわたります。
大学の先生を始めその分野の大御所もお見えになりますし、私のような地方公共団体の公設試験場の研究担当者(その中にも大御所はいます)、それから実際にその生物を生産されている個人・会社・団体、その生物を使用して加工・商品開発を行っている企業等からの参加、発表もあります。

以前も記事に書いたと思いますが、学会への参加・発表は、私ども公設試験場の職員にとって、本当の業務かと言われると、各地方公共団体でも様々なご意見があるようで、ある地方公共団体の方からは、打ち合わせ会議の席で、「本庁内部では、学会は業務ではなく、あくまで個人参加的なもの」というような意見があると聞いたことがあります。

私個人としては、業務としての位置付けをして欲しいと思っています。
もちろん、私達、公設試験場の本来の業務としては、やはり地域の生産者にとって役立つ試験・研究を行い、それを普及させていくことだと思っています。
しかし、そのためには、基本的な理論や、最新の技術、知識、考え方を修得していなければならないわけで、その点で、学会への参加および発表は、試験場や地方公共団体の中にこもっていては、決して出会えることのない“人”に出会えること、そういった技術、知識をお持ちの“人”と出会えるチャンス、実際の技術、知識を得るチャンスにめぐりあえることができる場だと考えています。そして、その後それをいかに、自分自身のスキルに繋げていって、地域の生産者に還元していくか、それが問題なのですが、そういうことが学会への参加、そして、ただ参加するだけでは都合が良すぎますので、自分がやってきたことや意見も発表させてもらって、それに対して意見や助言を受ける…そういう場だと考えて参加しています。

また、記事の題名と関係ないことを長々と書きました。いつものように前置きが長いです。

今回の学会参加での出張中に、学生の時の友人に久しぶりに会うことができました。それも2人に…。

一人は、私と同じように公設試験場の職員になっている者(男性)です。そいつも発表することは、事前の学会事務局からの案内で知っていたのですが、別会場でしかも私の発表時間とほぼ重なっていたので、残念ながら聴くことはできませんでした。初日の懇親会にも参加してなかったし、2日目も会場で顔を見かけませんでした。結局、初日に学会会場の最寄り駅から会場まで行く間に、ちょっとだけ近況を話しただけでした。

もう一人は、女の子…って年齢じゃぁないですね。女性、一児の母になりましたが、学生時代に、私達男友達3人と一緒によくつるんで遊んだり、勉強したり(?)していた友人でした。
昨年度末の県外出張の際に訪ねようとしたのですが、運悪く、私の出張直前に引っ越しされてしまって会えず終いでした。

彼女が今住んでいるところには、私の弟夫婦も近くに住んでいることがわかり、自宅に弟に車で送ってもらい、図々しくも弟と2人であがりこんでしまいました。

「いつから会ってない?」との問いに、
かれこれ、10年くらい会ってないことがわかりました。

4人とも、大学卒業してそれぞれの道を進んでいましたからね。それでも私達男友達3人の結婚式には、彼女は皆勤賞だったですよね。さすがに、彼女の結婚式には参加してませんけど…。

久しぶりの再会で、つもる話を永遠としたかったですけど、優しそうでとても明るそうな旦那様もお仕事からお帰りになり、1歳になったばかりのお子様のいるご家庭に長居はできないと、せっかくのお食事のお誘いでしたけど遠慮させていただきました。
↑きっと、「遠慮なんかせんでいいのに!」と、叱られそうですが…。

住まいが、比較的?近くになり(いや、まだまだ遠いけど…)、私の弟夫婦のマンションとも近くですし、また、今度ゆっくりと遊びにいかせていただきたいと思います。

そして、是非、うちにも遊びに来て欲しいと思います。…といっても、うちはかなり「陸の孤島」ですので、道中はとてもたいへんですけどね。
また、お会いできることを楽しみにしたいと思います。


最後に学会の話しに戻りますが、「自閉症」関係の学会で、専門家でないものでも入れそうな学会はないものかなぁ。
ちょっと最近興味を持ち始めています。探してみたいと考えています。

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2008年7月27日 (日)

『写真』

久々に音楽ネタでも…

』に書いたように、最近、車の中ではコブクロを熱唱しています。
妻が大好きで、昔のアルバムを結構集めましたので、知った曲がだいぶん増えました。
どれも良い曲です。ただ私は声が細いので、黒田の声は結構つらいですね。

他によく歌うのは、『Progress by コクア(スガシカオ)』、『奏 by スキマスイッチ』、『さくら by 森山直太朗』…etc.(あと、『千の風になって』も…ウケねらい?です)。
それから平井堅の曲かなぁ。
昔だと『LOVE LOVE LOVE』はよくカラオケで歌ったし、『瞳をとじて』はKO君も大好き。

アルバム・『fakin' pop』には、子供達の大好きな『POP STAR』。私がカラオケでよく歌う『美しい人』が入っています。他にも『君の好きなとこ』、『バイマイメロディー』…。

でも、妻には平井堅は不評です。「歌詞が女々しい」、「息継ぎの仕方がいや」と言っています。
いや、確かに女々しい曲が多いというのはわかります。 昔の『even if』は特に女々しい…。気持ちはとてもわかりますけどね。
しかし、『いつか離れる日が来ても』は、そんなに苦しいなら次の人に乗り換えればいいのに…と思ったりはします。
妻に言うと、「あなたはそういう人よねー!」と言われてしまいました。

『fakin' pop』の最後には、『写真』という曲が入っていました。
どうも、お父さんを亡くされた時の歌のようです。

歌詞は、いきなり…、
「写真立てのあなたに どんどん似ていく僕が 少し照れくさいけれど 少しうれしい」

うわぁ、絶対歌えない…と思いました。『』同様…。
blog を読んでいただいている方はご存じでしょうが、私の両親は、私が中3の時に離婚しています。
その時、私は母に、「離婚しないのならオレがこの家を出ていく」と強迫しました。
また、高1の時にふと家に戻ってきた父親に向かって、「出ていけ!」と言って追い出しました。

平井堅の曲なので、そんなふうに考えなくてもいいのですが…、
自分に照らし合わせると、「似てたくもないし、ましてうれしくもない、むしろ腹が立つ」…と・・・。

でも、すぐに考え直しました。
この曲、縁起でもない話だけど…、
『自分が死んだ時にKO君にこう思ってもらえるように、そういう生き方をしてみたい。』
KO君に対して、恥じない生き方をしたいと思いました。

なぜ、TO君ではなくKO君かと言うと、KO君は見た目も性格も、かなり私に似ていると思います。
でも、だからこそ、私はKO君の弱い部分、嫌な部分が見えてきます。それは、そっくり自分自身が持ち合わせている弱い部分、嫌いな部分なのです。

今は、身体も何もかも大きなお父さん(私)ですが、いずれKO君が成長して、いろんな意味で私を追い越していく(追い越していって欲しい)と思います(身体の大きさは追い越すなー!)。
その時、多分、今私が思っているように、父親の中にKO君自身が持つ弱さなんかを感じていくのかもしれません。

私自身は、父を超えるとか超えないとか、そんなことを感じることさえなく、その存在自体を捨ててしまいました。
でも、KO君に対しては、バカにされようが、嫌われようが、“超えていく(超えなければならない)存在”でありたいと思います。

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2008年7月26日 (土)

伝わらない…

幼稚園卒園時に、お友達にTO君の特性について妻が話をしたことを書きました…『伝わる』。

小学校に入学して交流学級には、幼稚園でTO君と同じクラスだったお友達がたくさんいます。
その当たりは、小学校側も配慮してくださったのかもしれません。

先日、PTA・バレーボール大会に妻が行ってきて(応援のみ)、その時に、お友達のお母さんから次のように言われたのだそうです。

「うちの子、『TO君とは幼稚園から一緒だし、TO君はおもしろいからいいんだ』って言ってたのよ。」

確かに、TO君は変わってるところもあるけど結構ひょうきんなところがあって、おもしろい奴なんだそうです。こうやってありのままのTO君を受け入れてくれるお友達もいるのだと、とても安心させられました。本当にありがたいことです。
そして、妻が話したことは、ちゃんと『伝わっている』のだと、うれしい気持ちになりました。


それなのに…、
他人にさえ…、子供にさえ…、『伝わっている』のに…、


私の母から手紙が届きました。
A4・3枚のワープロ書き…、乱筆・乱文の手書きの文章よりは、何を書いてあるのか解読可能ではありました。
しかし、以前からの私が伝えている“問い”に対しての返答は、一行・一言たりとも触れられておらず、完全に無視されていました。
そして、その内容のほとんどは『自分のこと』ばかり…。自分がここ最近どんなにたいへんなことをしているか、そんなことばかりが羅列され、私達家族にとっては何の関係もない話しばかりが書かれていました。

そればかりか…、
私達家族…TO君のことについて、やっと書かれている箇所があるかと思ったら…、

*****************************************************
アスペルガーの本を読んでいます。
親を殺すとか、人を殺すとか多いので心配でしょうが、TO君を信じて教育と愛情を注いでください。TO君は、まだこれからの人です。いつかは私もTO君に関わることができる日がくることを信じています。
*****************************************************

…と、こうです。本当にこれだけですよ。
呆れてものが言えません。

TO君は、いつアスペルガー症候群と診断がついたのでしょう? そんなこと誰も言ってません。
アスペルガー症候群の人は、「親を殺し、人を殺すことが多い」のだそうです。どんな誤った本を読んでいるのでしょうか?(きっと勝手な解釈をしているだけでしょう…) アスペルガー症候群の人やその関係者(“発達障害”全般もですけど…)が聞いたら激怒しますよ。
こんな誤った認識しか持てない人に、TO君と関わってもらいたくはありません。
よくもまぁ、実の孫のことについて、こんないい加減なことを言えたものです。
念のため言っておきますが、本当に何の脚色していません。削除したところも、追加したところもありません。A4・3枚の中に、私達家族…TO君のことについて書かれているのは本当にこの部分だけです。あとは全て手前勝手な言い分ばかりなのです。

この手紙…、実は随分前のことになりましたけど、小学校入学式の前日に送りつけられてきたものです。
私達が、翌日の入学式に備え、小学校の式会場の事前見学やスケジュール、段取りを考え、TO君にわかるように伝えている…そんな大事な時にです。
それに、この手紙には、KO君、TO君に対し、「入学おめでとう」の一言も書いてないのです。

“憤り”という文字では表せないくらいの感情を抱いてしまいます。

この母からの手紙で確信をしました。
間違いなく、母は、二度と孫の顔を見ることなく、死んでいくでしょう。
私は絶対に会わせません。

そして、絶対に許さない。死んでも許さない。

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2008年5月31日 (土)

強くならなければ…

無事、小学校に入学したTO君(KO君も…)ですが…、
もちろん(?)…まったく何の問題もなく小学校生活を送れているわけではありません。

通学は、地域に育成会というのがあって、その中で登校班が決まっており、近くのお兄ちゃん達と集団登校することになっています。
うちの子供達が所属する登校班は、二人を含めて1年生が4名、2年生が1名、3年生が2名、5年生が1名、6年生が1名(班長さん)の計9名です。1年生が多くて班長さんはたいへんです。

毎朝、うちの家の前に7時25分に集合し、30分になったら出発するということで行っています。

その中に、おばさんが一人…おっと失礼、お姉さんが一人(←それは言い過ぎ!)。
そうです、うちの妻は毎日、TO君に付き添って行っているのです。

当初の予定では、後ろの方から見守りながら行くつもりだったらしいのですが、やっぱりダメで、TO君と手をつないで行っているようです。

妻としては、それくらいのことは想定内のことだったようですが…、それだけではありません。

児童専用の玄関まで行くと、TO君は既に尻込み状態…。
特別支援級の担任の先生も迎えに来てくれているのですが、なかなか入っていくことができません。
先生も、それなら「お母さんも中にどうぞ」と言うことで、妻も付き添い交流学級の方に…。
それで教室に入ってくれるなら…、って入ってはくれず…、結局、教室の中まで妻は入っていかなければならないのです。

妻にはいたたまれない日々が続いたようです。
だってねぇ。幼稚園ならともかく、誰一人として、お母さんが付いてくる、しかも教室の中まで入ってくるお友達なんていないですからねぇ。
毎日、毎日、妻から溜息と愚痴がこぼれていました。

学校側も何の手だてもないまま、1月近くが過ぎようとした頃…、
妻が、とうとうある手だてを実行に移しました。

休み明けの月曜日、支援級担任に相談もなしでしたが、
児童専用玄関に到着するや否や、妻が…、
「先生、支援教室使わせてもらいま~す。」
と言って、とりあえず支援教室に連れて行き、大好きな恐竜図鑑をながめて落ち着いたところで、決めた時間になったら交流学級に向かう。
そして、妻とは交流学級に入る前で「別れの儀式」を済ませ、それでバイバイ、教室に入っていく。

日曜日から、TO君にはこの手だてを説明し、納得させていました。
これで難なく、交流学級にスムーズに入っていくことができるようになったのです。

妻曰く…、
「こういう時、TO君に必要なのは、先の見通しをつけさせることと、少しばかり楽しいことを与えること、そして、一歩を踏み出すためにタイミング良く背中を押してやること」
…だそうです。さすがです。TO君支援のプロフェッショナルですね。

妻自身も限界だったのです。
後で妻は、支援級担任に相談していなかったことをかなり後悔・反省していましたが、先生も特に気にしていなかった(本当は気にしてた?)ようで、「お母さんの思うようにやってください」とおっしゃっていました。
先生もまだTO君のことを熟知していないので、どこまでやっていいかわからないのです。とても優しい、親から見ても「優しすぎる」くらいの先生なのですよ。

障害児の親…特に母親は、「強くならなければ…ならない」のでしょうか。知らず知らずのうちに、「強くはなっている」のかもしれません。でも、「…ならない」のはあまりにも酷なことのような気がします。
障害児に支援が必要なように、障害児の母にも支援と気持ちに寄り添う気持ちが必要なのだと思います。
私も妻の愚痴を聴いてやることしかできませんけど、できるだけ気持ち穏やかに聴くように努力はしようと思います(まわりくど~)。

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2008年3月 4日 (火)

心強い感動

2月初旬の土曜日、私達が参加している勉強会=研究会(発達障害関係支援の研究会)主催の研修会がありました。

当初は妻も参加する予定だったのですが、「ことばの教室」の日程と幼稚園の参観日が重なるなどして、2月中に「ことばの教室」に行く日程がとれなくなることもあり、研修会には私だけの参加となりました。

研修会は午後からだったのですが、午前中からメンバー全員で会場設営(集合時間が違ってて、私はあまり何もしてない…)、それから私はお昼から開会まで駐車場係のお役目をすることになっていました。

「保護者は是非、講演を最初から聴いてください」との研究会メンバーからの有り難いお言葉で、駐車場係のお役目を終え、会場の席に着いたのでした。

すると…、演題の控え席には…、

私の脳裏に、まだ若かりし頃(え”ーもう×0年以上前!)、母校(高校)のグランド…体育の時間の映像がよみがえってくるではありませんか!

講演が始まるや否や、研究会のメンバーに、「講演の先生はおいくつですか?」と聴きにいきました。
もしかしたら他人のそら似?
途中休憩の時にも、別のメンバーに、やはり「先生の年齢は?」
すると、やっぱり同年代。間違いない!

そうなんです。そこにいたのは、高校の同級生でした。

休憩中に失礼して、挨拶させてもらいました(覚えてくれていてありがとう)。先生もびっくりしたことでしょう。
研修会後の懇親会は、延び延びになっていた妻の誕生会をする予定で欠席することにしていたのですが、急遽出席させてもらうことにしました。

研修会の内容はもちろん勉強になりました。わかりやすい講演・説明だったと思います。上手でしたよ。

研究会での打ち合わせの時に、研究会の支援者の先生方が「講師の先生が…」とお話されていたので、「講師」ということもあるし、もっとベテランの先生を想像していました。研修会チラシの名前を見て、「そう言えば、高校の時にこんな名前の同級生いたなぁ」とは思っていたのですが、「まさか、同級生が…」とは夢にも思いませんでした…。

自分の高校の時の同級生が、我が息子・TO君が持つこの「発達障害」という課題に対して、あのような姿で取り組まれている事実を知ったことは、私個人としては、とても心強く、感動する想いでした。千人力のパワーをもらった気持ちです。

この研修会に参加したことも、そして、この研究会に入ったことも、とても良かったと思いました。
研究会の皆さんとの連携、それから更に拡がる連携の大切さ、「支援の輪」のありがたさというものを感じさせていただきました。
人との繋がりのありがたさを感じた一日でした。本当にありがとうございました。
そして、今後ともよろしくお願いします。

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